コロナ禍をアイデアで切り開くプロレス団体 今だからこそできるファンサービスを実践

棚橋弘至が「プロレスファンの皆さん、愛してま~す」、オカダ・カズチカが「プロレスのチカラでコロナよりもその先、僕たちがパワーを届けていけるよう、そして皆さんの応援をパワーにして、しっかりと戦っていく」と締めくくった1・8新横浜大会。コロナ禍に打ち勝つためにはやはりプロレスの力が欠かせない。

ファンにアピールするオカダ・カズチカ(左)と棚橋弘至【写真:柴田惣一】
ファンにアピールするオカダ・カズチカ(左)と棚橋弘至【写真:柴田惣一】

かつて人気だったファンサービスはサインボールの投げ入れ

 棚橋弘至が「プロレスファンの皆さん、愛してま~す」、オカダ・カズチカが「プロレスのチカラでコロナよりもその先、僕たちがパワーを届けていけるよう、そして皆さんの応援をパワーにして、しっかりと戦っていく」と締めくくった1・8新横浜大会。コロナ禍に打ち勝つためにはやはりプロレスの力が欠かせない。

 コロナ禍でファンサービスも自由にはできない。握手は禁止、サイン会はリモート、会場での写真撮影も選手とファンの間にアクリル板……コロナ禍は先行き不透明とあって、団体サイドは新たな手法を模索し、ファンはじっと我慢し、全面解禁の日を待ち望んでいる。

 かつてファンサービスで人気を集めていたのは、サインボールの投げ入れだった。プロレス界で定着したのは、藤波辰爾(当時・辰巳)が海外遠征から凱旋帰国し、一大ブームを巻き起こした1978年(昭和53年)頃だろうか。

 最終的には色とりどりのカラーボールに落ち着いたが、当初は軟式テニス用のボールに各選手がサインをし、客席に投げ入れていた。ファンは応援している選手のボールを求めて争奪戦となったが、実は選手は自分のサインボールを投げているわけではなかった。

 控室で各選手がサインしたボールを回収し、カゴに集めていたため、リング上でどの選手が誰のサインボールを手にするかは全く不明。偶然、自分のボールを投げることもあったようだが、ファンにしてみれば、キャッチするのも大変な上、誰のサインボールなのかは運次第だった。

 となれば、お目当ての選手とは違ったサインボール、ということもしばしば。大方のファンはしっかり握りしめていたが、中には推しの選手のライバルのボールとなると、リングに向けて投げ返す猛者もいた。

 拒否された某選手のサインボールが坂口征二の前に転がってきた。苦笑いしながら拾い上げると、そっとポケットにしまい込んだ。「あいつも人気あるのに、彼(ライバル選手)のファンにしてみれば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なんだな」と後々、振り返っていた。

 いくつかの団体が参加したフェスティバル大会でサインボールがプレゼントされた。ところが、ファンが引き上げた無人の会場のイスの上に、ポツンと一つのボールだけが取り残されていた。それは正直、あまり人気のない選手のものだった。うっかり忘れたのではなく、積極的に置き去りにされたのかも知れない。気づいた関係者がそっとしまい込んでいたが、哀愁漂う場面だった。

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