田中泯「ダンスを芸術という必要はない」 農業で鍛えた肉体で踊る76歳のダンサーの哲学
前衛的な身体表現に関心「裸くらい自己表現しているものはない」
ダンスと出会ったのは20代の時。「それまでスポーツをやっていましたし、体を動かすという点において共通していました。前から芸術に対する好奇心はあったんですね。ところが、習い始めて、舞台に立ってみた時に、これはちょっと違うぞ、と思ったわけです。常に多数の人に一方向から見せて、お金を取るのはどうなんだ、と疑問を感じたわけです。これでは、舞台に立つことと、スタジオの鏡に自分の姿を映していることが変わらないんじゃないか、と」
そんな中、前衛的な身体表現に関心が移っていく。「とにかく極めたいと思いました。芸術の舞踊ではやっていることを全部取っ払ってしまおうと思った。客席を作り、人を集めて、音楽を使い、衣装を着て、チケットを売るという方法を全部なしにしたら、それは僕にとっては当時『裸』でした。でも、裸くらい自己表現しているものはないわけです。裸には個性があるから。ならば、毛をそる、体を土色一色に塗ってみる。胸毛までそったら、生えなくなった」と笑う。
注目を浴びる一方、警察にも目をつけられた。「日本では結構、捕まりましたね。“私”を見せようとしているんじゃなくて、もっとどう言えばいいかな…もっと『物質』のようにして見て欲しいということだったんですけども、彼らは『お前は全裸だった。恥ずかしいことをした』と言い張って、罰の対象になるんですね。要するに、僕は常識外れなことをやったわけですよ。そこで、常識は一体なにか、社会意識というはどういうものかを勉強しましたね」
1985年、40歳の時には、ダンスを表現するための肉体を野良仕事で作り上げようと、山梨県の白州というところで「身体気象農場」を設立。「僕の親父は農家のせがれでした。でも、次男だったので、継ぐことはできず、警察官になりましたが、本当は農業をやりたかったんだと感じたのですが、定年後狭い何坪もない庭で一生懸命、鶏を飼ったり野菜を作ったりするのを見て、短い間だったけれど一緒にやりました。どこかでの親父の夢の続きをやってあげたいなと思ったのかもしれませんね。最初は土地の人に認めてもらえず、ぼちぼち貸してくださるようになった。2年3年とたつうちに使わせてもらえる畑の面積が増えていくわけですよ。すでに跡取りが出てしまった家ばかりで、空いている土地はあり、実際に彼らの使ってない耕作地はどんどん増えていってる時代でもありましたから」
現在は1人で農作業を行い、にんじん、じゃがいも、玉ねぎなどさまざまな野菜を出荷している。赤に塗った軽トラックも自慢の一つだ。「踊りの会場に持っていくのですが、あっという間に売れてしまいますね」。ほとんど廃村と言っていい村にある古民家も自ら修復し再生した。「今住んでいるのも梁(はり)が落ちたりしているところを骨組みから直した家などです。壊れそうなものを直すのが好きなんです。僕は家を持つのが好きじゃない。土地も家もいらないと思っていて、いまだに借り物です。いずれは農業だけで食っていけるようにしたいと思っています」