力道山死去から58年 敬子夫人が語る“レジェンド”の素顔「私には常に優しかった」
敬子さんが語る力道山「格好いい人だった」
亡くなる半年前にスーパースターと結婚したのが、田中敬子さんだった。国際線キャビンアテンダントOGの敬子さんは、世界を相手に活躍するビジネスマンでもあった力道山のお眼鏡にかなった才女だった。
気さくで明るく聡明(そうめい)な敬子さんには、たびたび貴重なお話を伺っている。「日本にとどまらず、世界スケールで物事をとらえていた」「アイデアマンで常に新しいビジネスを考えていた」「人とはすべてのスタンダードが違っていた」……とにかく、全ての面に渡って大きな人だったようだ。
当時の時代の最先端を走っていたとあって、人脈も華麗そのもの。プロ野球などスポーツ界、芸能界のみならず政界、財界など超大物たちと親しく交流していたという。
「弟子たちには厳しく指導するときもあったようですが、それも愛あればこその行動です。私には常に優しく接してくれました」と敬子さん。楽しい思い出ばかりが蘇ってくるそうだ。
ファンの前では自身のイメージを大切にしていた。本当は魚などあっさりした和食が好みなのに、人目がある時には、血もしたたる分厚いステーキに豪快にかぶりつく。世界を舞台に活躍し、外国人と互角以上にやり合うには、彼らの食事をいとも簡単に平らげる必要があった。
高級外車を乗り回し、身の回りには海外からの直輸入品など、当時はまだまだ珍しかった超高級品ばかり。ゴルフ、ボウリングなど新しいものも積極的に取り入れ、すぐにこなしていた。「運動神経が良かったんでしょう。何事も器用にやってのける。格好いい人だった」と、敬子さんの瞳は夢見る乙女のようだ。
2020年東京五輪が控えていた19年には「今こそJAPANに力道山!~空手チョップに込められた願い」を発刊したが「五輪の前に、あの人の日本にかける熱意を改めて伝えたかったから」と熱かった。1964年の東京五輪を楽しみにしながら、思わぬ形で命を絶たれてしまった力道山の無念の思いを明かしてくれた。
熊本県天草市にプロレス殿堂館を設立するプランもスタートしている。敬子さんは名誉館長に就任し、来年4月に完成する殿堂館には、敬子さんが提供する力道山の愛用品や写真などが展示される予定だ。
プロレス70周年を迎えた日本に「今こそあの人(力道山)の出番かも知れない」と敬子さん。なかなか先が見えないコロナ禍を乗り切るためにも「プロレスの父」力道山パワーが求められている。間違いない。(文中一部敬称略)