激しい生存競争を経験したKENTA 挑戦者としての姿勢を提示し続けた1か月間
イッテンゴ(1月5日)で内藤哲也がIWGPダブル王者に君臨し、誰もが望んだハッピーエンドをぶち壊した"戦犯"KENTA。内藤との王座戦が決定した約1ヶ月間もの間、KENTAの暴挙はさらに加速。そんなKENTAを否定するファンが多い中、称賛側が存在したのも事実。死闘に勝利した内藤もある種"KENTAを認める発言。その真意とは……。
IWGP挑戦に名乗りを上げたKENTAへの賛否
新日本プロレスが2月9日に大阪城ホールでビッグマッチを開催。メインは1月4日&5日東京ドーム2連戦でおこなわれたダブルタイトルマッチの最終勝者・内藤哲也がKENTAの挑戦を受けるIWGPヘビー級&IWGPインターコンチネンタル王座ダブル選手権試合だった。
ドーム2連戦のエンディングをまさかの乱入でぶち壊し、大バッシングを受けたKENTA。ドームのメインで勝利しロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンのユニット名を大観衆とともに叫ぶという内藤の悲願を最後の最後で妨害したのはもちろん、KENTAは当日、自身の保持するNEVER無差別級王座から陥落していた。「勝ってならともかく、負けたばかりの選手が最高峰に挑戦?」 それだけに、“否”が絶対多数の賛否両論がわき起こったのも至極当然の反応だろう。しかも、KENTAがNEVER王座を戴冠したのは日本ではなく海外、英国での出来事だった。国内で2度の防衛を果たしてはいるものの、日本人でベルト奪取の瞬間を目撃した人数は限られている。それだけに、観る側が王者KENTAの実感をあまり持てなかったというのが正直なところ。KENTA自身もまだまだ自分の王者像、ベルトに色づけできていなかったことも響いたのではなかろうか。
しかしながら、乱入した勇気を買う声もある。内藤も言っているように、あれだけの行動に踏み切るには相当の覚悟が必要だ。それを実行に移したのだ。挑戦資格の有無は別として、KENTAにしか浮かばなかった発想であり、彼にしかできなかったことなのかもしれない。
ご存じのように、KENTAは新日本の生え抜きレスラーではない。新日本に辿り着く前は、世界最大のプロレス団体WWEに所属していた。そこには世界中から成功をめざしてレスラーがやってくる。声がかかったからといって将来が約束されたわけではない。そこから先に、厳しい生存競争が待っているのである。
KENTAはその競争を目の当たりにしてきた。入団契約は、2014年7月、あのハルク・ホーガン立ち会いのもと、日本でおこなわれた。日本サイドからしたら鳴り物入りの米国マット上陸。だが、アメリカではケガにも泣かされ、決して満足いく結果を残せたわけではない。契約を解除したのは昨年2月。6月9日大阪城ホールに“ソウルメイト”柴田勝頼に呼び込まれる形で新日本に初登場、G1クライマックス参戦を表明した。ここから正式に日本マット界復帰、新日本のレギュラーとしてリングに上がるようになる。
振り返ってみれば、G1最終日にバレットクラブ入りしたのも史上最大の裏切り行為、ドーム事件への伏線だったのかもしれない。ベルトを失ったレスラーが落としたタイトルよりも格上の王座に挑戦する。一見矛盾した考えのようにも思えるが、これこそ実はKENTAが見てきた世界での出来事なのである。タイトルだけではない。下部組織の王座から陥落した選手が、無冠をきっかけにメインロースターに昇格する。そこからまた新しい闘いに挑むのだ。KENTAはそういった岐路に立つレスラーを何人も間近で見てきたはずである。敗戦は決して後退ではない。新しいなにかに踏み出すチャンスでもあるのだと。
だからこそ、ドームでの思い切った行動に踏み切れたのではなかろうか。しかも2冠に輝いたばかりの選手なら、そのインパクトは絶大だ。それぞれのベルトにはまだ大きな思い入れもないKENTAだが、新しい戦場で主役をかっさらうには2冠獲得の内藤をターゲットにするのが一番わかりやすい。バックステージでのコメントや、SNSを通じてもKENTAは内藤を挑発してきた。このリングで生き残るため、考え抜いた手段である。