あなたは「突貫小僧」星野勘太郎さんを知っているか? マット界を席巻した突撃ファイトを振り返る【連載vol.67】

「突貫小僧」星野勘太郎さんの突撃ファイトを知っている人も少なくなっただろう。1961年に日本プロレスでデビュー。小柄な体で前へ前へ。ボクシング仕込みのパンチが得意だった。相手をヘッドロックに捕まえ、脳天にパンチを小刻みに連打するシーンが鮮明によみがえる。勘太郎のリングネームは往年の二枚目スター、長谷川一夫主演の映画「伊那の勘太郎」から付けられた。

マイクを持たせても天下一品だった星野勘太郎さん【写真:柴田惣一】
マイクを持たせても天下一品だった星野勘太郎さん【写真:柴田惣一】

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「突貫小僧」星野勘太郎さんの突撃ファイトを知っている人も少なくなっただろう。1961年に日本プロレスでデビュー。小柄な体で前へ前へ。ボクシング仕込みのパンチが得意だった。相手をヘッドロックに捕まえ、脳天にパンチを小刻みに連打するシーンが鮮明によみがえる。勘太郎のリングネームは往年の二枚目スター、長谷川一夫主演の映画「伊那の勘太郎」から付けられた。

 勘太郎さんが亡くなったのは2010年11月。まるで同年8月に他界したヤマハ・ブラザーズの盟友・山本小鉄さんの後を追うようだった。

 1967年、小鉄さんとアメリカ武者修行に日本を飛び出した。小さくてもパワフルで機動力抜群の「ヤマハのオートバイ」から命名されたというチーム名で大暴れ。まだまだ人種差別が激しかったアメリカ南部のテキサスやテネシーなどを転戦した。

 入店拒否など日常茶飯。観客にピストルを向けられるなども、しょっちゅう。実際に発砲されたこともあったという。ナイフを脳天に突き立てられるなど、リング外でも命の危険を感じた遠征で名を上げ、その活躍ぶりは日本にも轟いた。

 古今東西タッグチームは数あれど、ヤマハ・ブラザーズほど息の合ったタッグも珍しい。「1+1は2ではなく、1+1が3にも4にも5にもなるのがタッグの妙味」という言い方は、ヤマハ・ブラザーズから始まったと言っても過言ではない。

 全盛期には全日本プロレスの極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)と比較されることが多かったが、勘太郎さんは「向こうは体が大きいから、何やっても得だよね。見映えがするから。でも俺らは体が小さいから、その何倍も頑張っている。負けたくないね。いや絶対、負けないよ」と、キッパリ言い切ったことを今でも思い出す。

 新日本プロレスの2003年5月・東京ドーム大会では、OBによるバトルロイヤルに出場。ヤマハ・ブラザーズで最後の2人に残り、戦わずに「ヤマハは2人で一つ、2人で優勝」という泣かせるセリフで締めくくった。これには胸を熱くしたオールドファンが多かったはず。

 02年に結成したプロレス結社「魔界倶楽部」総裁としても「ビッシビシ行くからな!」の名セリフでマットを盛り上げた。プロモーターとしてプロレス界にも貢献したが、小鉄さん同様、まさにプロレスに捧げた一生であった。

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