実は武蔵と小次郎は闘っていなかった!? 猪木と斎藤の「決闘」から34年後の「巌流島」の今

猪木と斎藤が闘った「多目的広場」
猪木と斎藤が闘った「多目的広場」

吉田松陰や坂本竜馬も訪れた島

 ちなみに場所的にいうと、猪木と斎藤が闘ったのは、桟橋から船を降りてすぐ視界に入ってくる「多目的広場」。桟橋から見て、その手前には「佐々木巌流の碑」が設置されていたが、猪木戦前に現地を訪れた斎藤が「そこの前では写真を撮りたくない」と言った話があったことを思い出した。

 その結果、画家・古館充臣氏が書いた武蔵と小次郎の姿が描かれたイラストと、村上元三作「佐々木小次郎」の一説が刻まれた舟型の「文学碑」と呼ばれる石碑の隣にあった「巌流島」の文字の前で撮影された斎藤の写真が「週刊プロレス」の表紙になっていたのも記憶に残っている。

 また、プロレスの話で言えば、1991(平成3)年12月18日には、馳浩VSタイガー・ジェット・シンによるノーピープルマッチ。さらに2012(平成24)年5月5日には、武蔵と小次郎の決闘400周年を記念したチャリティーイベント「レジェンド・ザ・プロレスリング『巌流島5・5マッチ』」が行われ、地元出身の初代タイガーマスクらの熱闘を約3000人(主催者発表)が観戦。東日本大震災で被災した岩手県宮古市から招かれた子どもたちも声援を送った。

 さらに現地にあった説明によれば、吉田松陰や坂本竜馬、斎藤茂吉や将棋の羽生善治竜王(当時)も訪れたという巌流島。関門海峡に浮かぶ無人島ながら、現地にいたタヌキは目撃したし、「山口県下関市大字彦島字船島648番地」という住所もある。

 その大きさは埋め立て前が1万7000平方メートル(埋め立て後は10万3000平方メートル)との記述があることから、4万6755平方メートルの東京ドームを基準にすれば(埋め立て前は)約3分の1個分。要は、今ではほとんどが埋め立てられた島になっている。

 結論を言えば、巌流島に上陸できたことは、言葉では言い表せないくらいの大きな財産になった。単なる観光以上の何かを感じられたような気がしている。

 武蔵と小次郎の決闘から409年。コロナ禍が落ち着いた際には、今度は福岡側から渡ってみたい。いや、下関側から渡ったとしても、また現地で感じる潮風に吹かれながらボーッとするのもいいが、今度は武蔵はどんな気持ちで島への船に乗っていたのか。島で小次郎はどんな思いで武蔵を待っていたのか。猪木や斎藤はどうだったのか。そんなことをじっくりと想像しながら「決闘の聖地」への旅を楽しみたいと思った。

次のページへ (4/4) 【動画】「決闘の聖地」である巌流島に渡った際の実際の動画
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