実は武蔵と小次郎は闘っていなかった!? 猪木と斎藤の「決闘」から34年後の「巌流島」の今

宮本武蔵と佐々木(巌流)小次郎による決闘の地として知られる巌流島(山口・下関市、別名船島)。時は1612(慶長17)年4月13日(12日か14日との説もある)というから、今から400年以上前の江戸時代になる。しかしながらプロレスファンにとって最もこの場所が注目されたのは、今から34年前の1987(昭和62)年10月4日、アントニオ猪木とマサ斎藤によって行われた、ノーピープルマッチになるだろう。

34年前、アントニオ猪木戦の前にマサ斎藤が記念撮影を行った場所にて
34年前、アントニオ猪木戦の前にマサ斎藤が記念撮影を行った場所にて

猪木、離婚直後の巌流島決戦

 宮本武蔵と佐々木(巌流)小次郎による決闘の地として知られる巌流島(山口・下関市、別名船島)。

 時は1612(慶長17)年4月13日(12日か14日との説もある)というから、今から400年以上前の江戸時代になる。

 しかしながらプロレスファンにとって最もこの場所が注目されたのは、今から34年前の1987(昭和62)年10月4日、アントニオ猪木とマサ斎藤によって行われた、ノーピープルマッチになるだろう。

 早朝に行われるはずだった小次郎と武蔵の決闘は、武蔵が昼頃まで姿を見せなかったことで、開始時間が昼近くになったと言われているが、猪木と斎藤の一騎討ちが開始されたのは午後4時半。そこからなんと2時間5分14秒という、日本プロレス史上最長の試合時間を闘った上で、猪木が斎藤に勝利した。

 だが正直な話、勝敗がどうなったとかそういうことよりも、なぜ20世紀になって、観客を入れずに2人の男が2時間以上も取っ組み合いをやっているのか。夕闇に照らされた巌流島にはかがり火がたかれ、猪木は斎藤をそこに打ちつけたりしていたし、リングは設置されているのに、なぜか両者はリング下の草の上で取っ組み合ったりと、いつもの試合とは大きくかけ離れていた。

 これに関しては、現地に設置された年表に「巌流島いっぱいに篝火を焚きアントニオ猪木とマサ斎藤のプロレス『夜のデスマッチ』興行。」(原文ママ)との記述もあったが、当時、高校生だった私は、テレビで放送された光景を見ながら、画面上で行われていることの意味がよく分からなかった。

 たしか両者の闘いから1週間後だったか、巌流島での斎藤戦の前に、猪木が妻の倍賞美津子と離婚していたことが発覚し、猪木にとってはさまざまな葛藤の中で行われた一戦だったことが分かった。今思えば、番組改編期のテコ入れで奇抜な企画を求められていたのだろうが、猪木自身にとっての軸だったはずの倍賞美津子との別れは、全ての諸問題をぶっちぎりで突き抜ける空虚感をもたらしたに違いない。

 その結果が、鋭角的な情念がほとばしる取っ組み合いになり、その理不尽さがこちらの脳裏と心に突き刺さってきたのだ。

次のページへ (2/4) 猪木と斎藤が闘った草原に寝っ転がってみた
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