【オヤジの仕事】鈴川真一 相撲時代の不祥事で迷惑かけたオヤジは今年料理人50年
プロレスラーの鈴川真一(36)は波瀾万丈の格闘人生を歩んできた。15歳で相撲部屋に入門し、「若麒麟」のしこ名で将来を嘱望されながら世間を騒がす不祥事により、現役引退。1年間の雌伏の時を過ごした後、アントニオ猪木氏のプロレス団体「IGF」でデビューし、破天荒ファイトで注目を集めた。そんな鈴川を支えたのは、兵庫・川西市で割烹料理店を経営する父の淳一さん。知られざる父子のドラマとは。
兵庫・川西市で割烹料理店を経営 料理一筋50年
プロレスラーの鈴川真一(36)は波瀾万丈の格闘人生を歩んできた。15歳で相撲部屋に入門し、「若麒麟」のしこ名で将来を嘱望されながら世間を騒がす不祥事により、現役引退。1年間の雌伏の時を過ごした後、アントニオ猪木氏のプロレス団体「IGF」でデビューし、破天荒ファイトで注目を集めた。そんな鈴川を支えたのは、兵庫・川西市で割烹料理店を経営する父の淳一さん。知られざる父子のドラマとは。
オヤジは料理屋ですね。日本料理をやっています。中卒でそのまま料理の世界に行きました。若い時は仕事もいろいろしていたらしく、料理に関するお花の修行とか、器の修行もしたと聞いています。大阪や京都で修業して、独り立ちしてお店を出しました。
お店があったところはもともとうどん屋でした。祖父母が経営していました。うどん屋の前に線路があったんですけど、その線路がずれた場所に店を出したんです。オヤジと母親、あとアルバイトの学生さんがいましたね。ばあちゃんは朝掃除やったり、お花を生けたりとかお手伝いをしていました。
幼稚園の時、お昼寝タイムがあったんですけど、その時、オヤジがクエという大きな魚を持ってきたんです。庭の銀杏の木にSの字のフックでひっかけて。1メートル以上あって、めちゃくちゃでかい。みんな飛び出して見たのを覚えています。
オヤジは夜、家にいないから、学校が終わったらお店に行って家に帰るという感じでしたね。おやつもいろいろおいしいものを食べれました。甘鯛の骨を食べたり、小学校の時にはスッポンの血とかも飲んでいました。いいもの食っていたと思います。料理ではオヤジの味もあったし、家庭の味もありました。両方食えたので、よかったなと思っています。
木曜日はお店が休みで、よく遊びに連れていってもらいました。近所には山だったり、海だったり、池が多かった。夏は虫捕りや釣り、冬は雪山に行ったり、いろいろ連れていってもらいました。海水浴にいった時、岩場で巨大なクエが足元で泳いでいて、水の中に入ったら2メートルぐらいに見える。あのデカさと迫力で、食われるんじゃないかと恐怖心を覚えて、オヤジに抱き着いてパニックになって2人でおぼれそうになった時もありました。オヤジはゴルフもうまくて、地元で結構強かった。知り合いのおっちゃんから「ゴルフはうまかったよ」という話をよく聞きましたね。
中1の終わりぐらいかな、オヤジと夜話してた時に近所のおっちゃんがお店に来て、「真一、ちょっと相撲部屋を見て来い」と話があった。ちょうど大阪場所をやっていて、そのおっちゃんが車を出してくれて稽古を見にいった。朝4時くらいに着いたら、稽古場にライトがポンとついて、明らかに稽古している感じが外からも分かる。そして、中に入って見学させてもらったら「何だこりゃ」と思いましたね。めちゃくちゃ寒くていつの間にか眠ってしまっても稽古でぶつかる音で起きちゃう。何回もそんなことがあって、目が覚めました。そして稽古が終わって外に出たら「アンチャン、何歳だ?」って引き止められて、親方のところに連れていかれたのが入門のきっかけになりましたね。
オヤジも15歳で料理の道に進んでいるから、反対はしなかったです。「本人がやりたいんだったら」と送り出してくれましたね。びっくりするくらいすんなりでした。いいオヤジですね。それまで何かをやりたいとか特に強く思ったことなかったけど、自分で初めてて決断したことを応援してくれたわけですから。「あとは頑張るだけ」という気持ちになりました。母親は嫌がってたらしいですけどね。
相撲部屋に入門するってなったのは中学の卒業式の1週間前でした。みんな卒業式の準備で歌を歌ったり、整列の練習をしていて面倒くせーなと、なんか気が入らない時でしたね。ボクは卒業式に出ないので練習しているのが無駄な時間と思っていました。そんな時、同級生を集めて、ふぐ鍋パーティーをしたのを覚えていますね。オヤジがやってくれたんです。旅立ちを祝ってくれました。そして、出発当日は寒かった。地元の子が家の前に何人か集まってくれた。オヤジと車で大阪場所の宿舎に行ったのを覚えています。