「芸能人やスポーツ選手はなぜ薬物に手を出すか」――精神科医が日本特有の理由を分析
覚せい剤は回復不能な覚せい剤精神病を誘発する
多くの著名人やタレントが、軽い気持ちで薬物に手を出してしまうのはなぜでしょうか。
それは、薬物の本当の怖さをよく知らないからではないかと思います。日本は海外に比べ、薬物のなかでも依存性の高いハードトラックである覚せい剤の使用者が多いので、とくに覚せい剤についてお話ししたいと思います。覚せい剤を摂取すると、覚醒作用や気分の高揚などの主な作用に加えて、副作用として統合失調症(精神分裂病)とほぼ同じ被害妄想や幻聴の症状を示す「覚せい剤精神病」を誘発することが珍しくありません。この覚せい剤精神病は重篤で回復不能といっていい病なのです。
覚せい剤精神病はたった1回、覚せい剤を使用しただけで誘発される人もいます。一度でも覚せい剤精神病の症状が出ると10~20%の人は慢性化して生涯にわたり治りません。覚せい剤の使用をやめても、被害妄想や幻聴が長期間持続することもしばしばみられます。
覚せい剤使用は進んで精神病にかかろうとするようなもの
数回の使用では症状が出なかった人でも、依存性が高いので何度も使用することになり、正確なデータはありませんが、年単位で使用しているとおそらく乱用者の3分の2以上は覚せい剤精神病の症状が出現するのです。ですから、極論すれば、覚せい剤に手を出すということは、自ら進んで重篤な精神病にかかろうとするようなものだ、ということです。まったく愚かなことです。
覚せい剤精神病の症状としては、「死ね!」「殺してやる」という幻聴があったり、「警察に追われている」などとという被害妄想がよくみられます。その結果、追い詰められて(いると思い込んで)自殺をしたり、親や通りすがりの人を敵や敵の回し者と思い込み、反撃しようとして刺し殺したりすることも起こっています。これは、悲惨の一語に尽きます。1981年に起きた深川通り魔殺人事件(29歳の元寿司職人が乳幼児らを含む4人を殺害し2人を負傷させた事件)を記憶している人も多いと思いますが、この事件はそうした例のひとつなのです。
割腹自殺をはかった患者さんの話
私が治療に当たった患者さんの話もしましょう。
16歳で家を飛び出したAさんは、23歳の時、覚せい剤所持で服役し、その後も覚せい剤、強盗事件などで数回にわたり刑務所に入所した後、覚せい剤の乱用で精神的に不安定になって割腹自殺を決意し、路上で自身の腹部を包丁で20センチあまり切りつけました。さらに、自らの腸管をも引っ張り出すという有り様でした。
Aさんは奇跡的に一命を取りとめ医療刑務所に服役しましたが出所して3日後、ホテルでドアを叩くなどして暴れ精神科へ連れてこられました。入院中は、「狙われている気がする」などとひとり言をつぶやいたり、怒声を発したりしていましたが、しだいに落ち着きました。それで友人宅への外泊を許可したところ、飲酒をきっかけに精神症状が再発し、「光が飛んでくる」などと言いだしたのです。病院へ戻って治療を続けて何とか退院しましたが、退院後もなかなか安定せず、残念ながら、症状はだんだん悪化しています。
自殺を試みたり、他人を傷つけたりするのは、かなり重篤な覚せい剤精神病の例です。ここまで重篤になる前に警察に逮捕されたり、仕事が続かなくなって周囲に病院に連れてこられたりするのですが、実は、覚せい剤精神病患者による事件は報じられているよりずっと多く起きています。なぜなら、たとえ刑事事件を起こしても、加害者が明らかに精神病を患っている場合、実名が報道されなかったり非公開になったりして、人目に触れずに葬られている事件も少なくないからです。
覚せい剤に手を出した普通の高校生の実例
覚せい剤は今では特別な世界の人だけでなく、いわゆる普通の人たちでも入手しやすくなり、気軽に手を出すようになっています。私の患者だったCさんは明るく、問題行動など起こしたことのなかった都立高校生で、高校2年生の時に知り合った年上のボーイフレンドに勧められて覚せい剤を使用し始めてしまいました。
家族関係も良好でしたが、家族がCさんを精神科につれてきたときには、興奮状態で泣きわめき会話がなりたたない状態でした。C さんは、真冬である2月にノースリーブに裸足で、「思い出の場所に行く」と家を出て行き、近くの中学校の校庭を全裸になって徘徊していたのでした。
名作は薬物の力を借りなくても生み出せた
覚せい剤精神病を発症すると、治療を何年も続けなければいけません。そして、いったんは治ったかにみえても、飲酒や睡眠不足でストレスがたまったりしたときに再発することも多く、治療は困難な面が大きいといえます。
覚せい剤は一時的な興奮作用をもたらすだけでなく、脳の機能を永続的に、それも悪い方向に変化させる作用を持っています。軽いファッション感覚で手を出してしまった薬物のせいで、本人だけでなく、その家族の人生の目標も夢も、まったく狂ってしまうのです。
過去の有名なミュージシャンが薬物を使用して名作を残してきたことを最初にお話しましたが、そもそも彼らは薬物の力を借りないと名作を作ることができなかったでしょうか。そんなことはない、と私は思います。もしかしたら、薬物を使用しなかったら、もっとたくさんの名作を生み出せたかもしれないのです。
○岩波明(いわなみ・あきら) 1959年2月18日、横浜市生まれ。東京大学医学部卒。1993年、「覚せい剤精神病の事象関連電位」で医学博士の学位を取得。東京都立松沢病院、ドイツ留学、埼玉医大精神科などを経て、現在は昭和大学医学部精神医学講座教授兼昭和大学附属烏山病院長。著書に「狂気という隣人」(新潮社)、「誤解だらけの発達障害」(宝島新書)など。