3000万枚を売り上げた音楽P、松尾潔さんが53歳で作家デビューの理由
3、4分の曲で、数億、数十億円のセールスを作ってきた男がなぜ今、小説を?
執筆開始から完成までは実に6年がかりという労作。そこまで時間を掛けた意味は何か?「3、4分の曲で、数億、数十億円のセールスを作ってきた男がなぜ今、小説を? というご質問かと思いますけど、何でもマネタイズに結びつけるのはよくないですよ(笑)。昔、糸井重里さんが『家族解散』(1986年)という小説をお書きになった時に、『1行1000万円のコピーを書く俺が……』と自嘲気味に言っていらっしゃいましたが、コスト計算とかを越えた向こうに、人と人を結びつけるものがある。何事にも代えがたい人生の価値がある。人間はそこを欲しているんだと思いますね」
確かに、小説には、書かざるにはいられなかった思いがにじみ出ている。もともと早稲田大学時代からライターとして活動していた。「学生時代は音楽よりも小説を書く方が、自分にとって近い夢だと思っていたんですよ。音楽誌は読んでこなくて、小説ばかり読んでいました。当時は僕が好きなアメリカのR&Bが日本ですごく急激にマーケットを拡大しているところに居合わせたものだから、ライターとしての修行しないまま、仕事を始めて、たまたまうまくいってしまったんです」
その後は音楽制作の現場へ。海外では先駆者もいたが、日本では異例のキャリア転身だった。「久保田利伸さんとの出会いをきっかけに、制作に軸足を移すことになりました。2001年、CHEMISTRYのファーストアルバムにケイコ・リーさんを招いて、ジャズにアプローチした曲を作ったんです。その時に、インスピレーションの1つにしたのが藤田宜永さんの直木賞受賞作『愛の領分』でした。それが縁になって、翌02年に藤田さんと対談する機会がありました。たいへんウマが合って、お食事をしたり、渋谷円山町のヒップホップクラブにお連れしたりと、いくつかの夜を一緒にくぐり抜けたんですが、藤田さんから『松尾さんは小説書きたい人だろう』と言われたんです」
しかし、その言葉に反発してしまった。「なかにし礼さん、阿久悠さん、伊集院静さん、山口洋子さんと、作詞の世界から小説に領域を広げた方がたくさんいらっしゃることは承知していました。小説はもちろん好きだけど、ぼくはもっと広い意味での『物語』が好き。それは音楽を作ることですごく満たされていました。物語って、人によっては映画かもしれないし、絵画かもしれない。僕の場合は音楽なんです、と。でも、藤田さんは『音楽で名前が大きくなると、書けなくなるよ』と。僕を思ってのお言葉であることは分かったんですが、小説がゴールだ、とも感じられる物言いに、青臭く反発してしまったんでしょうね。あと単純に、そういう時期じゃなかったのかな」
その後も多忙を極めたが、08年、40歳の時には音楽プロデュースからの引退を心に決めたこともある。「人生ざっくり80年とすれば、折返し。やりたいこと以上のことを十分やれたと思っていたんです。だから、周りに迷惑かけずにフェードアウトしようと仕事量をセーブして、その年は5曲しか作らなかったんです」