【オヤジの仕事】デビュー以来第一線で活躍を続ける斉藤由貴が厳しかった父の背中から学んだ女優魂
父の仕事への姿勢を見て育ち根性を学んだ
そんなときに母が「ミスマガジン」募集の新聞広告を私に見せて「受けてみない?」と勧めてくれました。内向きになっていた私の目を外に向けさせたいっていう苦肉の策だったんだと思います。でも、まさかグランプリをいただいてアイドル、女優さんになるなんて、私は思いもよらなくて! 両親も「とりあえず経験としてやらせてみよう」というぐらいの感覚で、その後も思いがけず順調にいってしまったので、両親は心の中では困惑しながらも、事務所を信じて流れを見守っていたんじゃないかと思いますね。
ここまで順調にこられたのは、両親が働く姿をずっとそばで見てきたからでもあるかなと思います。帯の仕立ての仕事は良い時もありましたが、時代の流れとともに厳しくなっていきましたし、オイルショックのとき(73~74年、78~82年)には着物などの贅沢品の需要がガクンと減って、母は飲食店の手伝いに行ったり、父は自動車工場に働きに出て夜から朝まで必死で働いたりしていました。
子どものときは「そんなものか」と受け止め、親の苦労はわかりませんでしたが、自営業は浮き沈みがあり、だからこそどんな仕事であれ、いただいた仕事は寝る時間を削ってでも、ひとつひとつ必死でやろう、という根性みたいなものを父から学び、私も自然と身につけたんじゃないかと思います。芸能活動も似たところがあるので、私もいただいた仕事はとにかくやってやろう、投げられてきたボールは自分なりに全力で打ち返してみよう、という気持ちでやってきました。そうしていながらも、自分の状況や人生を楽しむ、みたいな姿勢は母から学んだように思います。
父お手製の“おかもち”を30年愛用している
デビューしてしばらくして、“おかもち”を父に作ってもらいました。“おかもち”に台本や水筒や鏡を入れて、付き人に持ってもらっている女優さんがいるのを見て、私もほしいなと思って。父はもともと家具職人だったので、自宅の小さな戸棚とか机とか、和物の家具も洋物の家具もよく作っていたんです。もちろん、お店で売られているような立派な出来映えの家具なんですよ。
“おかもち”はここにこういう仕切りを入れて、これぐらいの寸法でとか、細かいデザイン画を描いて父に渡しました。すると、父は父なりに勉強してくれて、四隅に黒い金具を付けた “おかもち”を作ってくれました。それから30年、ずっと使い続けているんですよ。もうボロボロなんですけど、すごく気に入っています。頑丈だから、この先もずっと使えそうだし、私が女優を続ける限りは、一生この父特製の“おかもち”を使い続けると思いますね。
□斉藤由貴 (さいとう・ゆき)1966年9月10日、横浜市生まれ。高校3年の84年、「週刊少年マガジン」(講談社) 主催の第3回ミスマガジンでグランプリに輝きデビュー。85年2月、「卒業」(ポニーキャニオン)で歌手デビューし、同年4月には「スケバン刑事」(フジテレビ系)で連続ドラマ初主演。86年、NHK連続テレビ小説「はね駒」のヒロインに。同年12月には「悲しみよこんにちは」でNHK紅白歌合戦に初出場した。歌手、女優として活躍を続け、歌手としては「初戀」「MAY」「夢の中へ」、女優では「はいすくーる落書」「吾輩は主婦である」(TBS系)、「同窓会」(日本テレビ系)、映画「雪の断章 -情熱-」「優駿 ORACION」「三度目の殺人」など多くの作品で愛されている。94年に結婚し、20歳の長女を筆頭に1男2女。