【オヤジの仕事】デビュー以来第一線で活躍を続ける斉藤由貴が厳しかった父の背中から学んだ女優魂
1984年にデビューしてすぐにトップアイドルになり、これまで女優、歌手として多くの作品で活躍してきた斉藤由貴さん(54)。2020年もドラマ「危険なビーナス」(TBS系)、映画「おかえり ただいま」などに出演し、11月12~14日は「東京建物 Brillia HALL」(東京・豊島区)で「斉藤由貴35th anniversary concert『THANKS GIVING』」を開催する。斉藤さんが常に第一線で活躍してこられたのは、父・努さんから学んだ“仕事に対する姿勢”があったという。
職人だった父は“恐怖の塊”みたいな人だった
1984年にデビューしてすぐにトップアイドルになり、これまで女優、歌手として多くの作品で活躍してきた斉藤由貴さん(54)。2020年もドラマ「危険なビーナス」(TBS系)、映画「おかえり ただいま」などに出演し、11月12~14日は「東京建物 Brillia HALL」(東京・豊島区)で「斉藤由貴35th anniversary concert『THANKS GIVING』」を開催する。斉藤さんが常に第一線で活躍してこられたのは、父・努さんから学んだ“仕事に対する姿勢”があったという。
今、改めて父の生涯を振り返ると、苦労が多かったんだろうなと思います。父は幼い頃に両親――私の祖父母が離婚して辛い思いをし、戦後の貧しい時代を生きた人でした。高校卒業後、仙台から東京へ出てきて、デザイン学校で学び家具職人として工房に勤めていたのですが、23、24歳のときに母と結婚し、母の家業である着物の帯の仕立ての「水島帯裁縫店」を継ぎ職人になりました。もともと器用だったのだとは思いますが、相当な努力をして仕立ての技術を学んだんだと思います。お弟子さんを数人抱えた時期もあったほど、繁盛していましたから。
父はすごい厳しくて、子どもにとっては“恐怖の塊”みたいな人でした。怒られると家の外に出されて一晩中とか、手も出ましたしね。今だと虐待と言われそうですけど、昔はそういう父親はそんなに珍しくなかったですよね。父は特に礼儀作法とか“家のルール”、言葉使いに厳しくて、朝は「おはようございます」とあいさつし、「○○はどうしますか」「○○してもいいですか?」って、私たち子どもは当たり前のように丁寧語で話しかけていました。
家訓が壁に…家庭は学校のようだった
“家のルール”というのは、ウチは廊下の壁にポスターみたいに、家訓とか“朝の仕事”“夕方の仕事”が書かれた紙が貼られていたんですよ。家訓は「あいさつはハッキリと」とか(笑)。“朝の仕事”“夕方の仕事”というのは、私は姉、兄、弟の4人きょうだいなんですけど、それぞれやらなきゃいけない仕事が割り振られていたんです。私の“朝の仕事”はダイニングの床の雑巾がけ、“夕方の仕事”はお米を洗って、野菜を切ったりして晩ご飯の仕込み。両親共働きだったので、子どもも家事をよく手伝っていました。
しかも、「水島帯裁縫店」は自宅の1階にあって、自宅は仕事場を兼ねていたのでサボることができないんですよ。私たちきょうだいは全員、ピアノと水泳を習っていたんですけど、2階にあるピアノで1日1人30分練習する、と決められていて、少しでも休憩していると、1階の仕事場とピアノのある部屋を繋いでいたインターホンで「ピアノの音が聞こえないよ!」なんて言われちゃうんです。怖いでしょ(笑)?