竹田誠志、命がけのデスマッチ人生の真実「嫁からはどんどんやれと言われてます」

「初めて傷ができた時は嬉しくて鏡をずっと見てましたね(笑)」

――で、田村代表にはいつ会ったんですか?

「あ、田村さんとは『U-STYLE』の大会で物販を手伝って、大会が終わった後の打ち上げでごあいさつさせていただきました」

――1年後くらいに会ったと。

「その頃は西調布にもジムがあって、そこでプロの練習をやっていて。そこに連れて行ってもらえるようになって、田村さんともスパーリングをさせてもらえるようになったんですけど、その当時、U-FILEの関係者で『STYLE-E』っていうプロレスの大会を月に一度、その西調布のジムで開催していて、僕に『プロレスが好きなら、観に来れば?』ってお声がかかって、観に行ったら意外と面白いなあと。だったら一緒にやろうよってことで、ようやくプロレスの道につながったっていう」

――そこからようやくプロレスに。

「その頃はぶっちゃけ、総合も楽しくて。趣味程度でプロレスを月イチでやるならいいかなくらいで。2007年1月に『STYLE-E』でデビュー戦をやって、その年に、当時、橋本友彦さんが『MAKEHEN』という大会をやっていて、そこに大日本のチャンピオンだった佐々木貴さんが出ていたんです。だから『僕はデスマッチが大好きなんです』って話をしたら、その後に李日韓レフェリーから連絡があって、『大日本のテストマッチを受けてみない?』って言っていただいて、そこからはトントン拍子に話が進んでいった感じです」

――金銭的にはどうでした?

「やっぱりそこは厳しかったんですけど、自分的にはお金じゃなくて、やりたいことがやれているならいいかなって割り切ってやっていましたね。若かったのもあるんですけど、その頃は家庭もなかったし、1人だからいいかなって。だからお金がほしいというよりは、血を流したいなって」

――カネより血!?

「田村さんには、西調布でウエイトで一緒になった時に聞かれたことがありますね。『何が楽しいの?』って(笑)」

――楽しさが分からない人には分からないですよね(苦笑)。

「だいぶ『U』とはかけ離れてますからね」

――実際にデスマッチをやってどう思ったんですか?

「不思議と恐怖心もなく。それこそデスマッチの代名詞と言われる蛍光灯デスマッチをやった時は、傷ができたのが嬉しくて」

――嬉しかったんだ(苦笑)。

「鏡をずっと見てましたね(笑)。今でも傷を見ると、その試合の記憶が蘇ります。デカい傷は覚えていますね。でもその頃は並行して格闘技の練習もしていたので、次の日に寝技をやると痛くて(苦笑)」

――なるほど(苦笑)。

「それもあって格闘技からだんだん離れていくんです」

――そういうことなんですね。素朴な疑問、どんなデスマッチがあるんですか?

「ポピュラーなのが蛍光灯、ガラスボード、有刺鉄線ボード、カミソリボード、竹串……」

――カミソリっていうのは?

「発泡スチロールにカミソリの歯を上にして並べるんです。そこに皮膚が触れるとパックリ割れるという」

――うえ~ッ!

「やっぱりビジュアル的に血が流れないと。非現実を見せる世界なので」

――今もあるでしょうけど、大仁田厚さんの全盛期は電流爆破デスマッチが有名で、ミスターデンジャーこと松永光弘さんとかはピラニアデスマッチとかやっていたじゃないですか。

「その頃に比べたら過激化しているかもしれないですね。それとよく『何が痛い?』って聞かれるんですけど、全部痛いです(笑)。今は有刺鉄線ボードとかが一番軽い感じになっていて」

――1番軽い?

「有刺鉄線だと『今日は楽だね』みたいな(笑)。ちょっとおかしいですよね、感覚が(笑)」

次のページへ (4/6) 「脇から肩にかけて、蛍光灯が貫通」
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