竹田誠志、命がけのデスマッチ人生の真実「嫁からはどんどんやれと言われてます」
“千の疵(きず)を持つ男”竹田誠志。デスマッチに憧れながら、なぜかU-FILE CAMPに入門し、総合格闘技のリングでデビューした後にデスマッチの世界へと転身した謎の男だ。包丁が背中に刺さり、脇から肩に蛍光灯が貫通して全身麻酔で手術を受け、集中治療室に2日間隔離されながら、ひと月後にはリングへ復帰と、まさに超人的な回復力を持つ竹田が、自身のデスマッチ人生を振り返る――。(聞き手◎“Show”大谷泰顕/協力◎弥武芳郎)
高校の文化祭で「デスマッチ凶器展示会」を開催
“千の疵(きず)を持つ男”竹田誠志。デスマッチに憧れながら、なぜかU-FILE CAMPに入門し、総合格闘技のリングでデビューした後にデスマッチの世界へと転身した謎の男だ。包丁が背中に刺さり、脇から肩に蛍光灯が貫通して全身麻酔で手術を受け、集中治療室に2日間隔離されながら、ひと月後にはリングへ復帰と、まさに超人的な回復力を持つ竹田が、自身のデスマッチ人生を振り返る――。(聞き手◎“Show”大谷泰顕/協力◎弥武芳郎)
――今日は“千の疵を持つ男”竹田誠志選手の謎に迫っていきたいなと。
「謎? あるのかなー(笑)」
――まず最初に出身地から教えてください。
「町田生まれの町田育ちで、今も町田に住んでいます。35年間、町田を出たことがありません。町田がずっと好きで、今も町田に住んでいます」
――聞くところによると、中学時代からデスマッチに憧れたとか。
「それまでは普通にメジャー団体を見ていたんですけど、当時の友だちがレンタルビデオ屋さんに行ったら、血みどろのパッケージのビデオがあって、ヤバそうだから見てみようってみんなを集めて見たんですけど、その時に感銘を受けて」
――感銘を?
「はい。その時に血を流すのが楽しそうだなっていう感覚になって(嬉しそうに)」
――楽しそう!?
「それまではプロレス専門誌を見てもそういうページは飛ばしていたんですけど、そこから改めて読み返して。それが始まりですね」
――それは誰の試合だったんですか?
「大日本プロレスの旗揚げ戦(1995年3月16日、横浜文化体育館)でしたね。グレート小鹿さんがパンチパーマで、ケンドー・ナガサキVSジ・アイスマンの試合があって。その後、専門誌を見ながらカッコいいなと思ったのが葛西純さんでした」
――“デスマッチのカリスマ”葛西選手ですね。
「そこから、将来デスマッチをやりたいからレスリングの強い高校に行きますっていう流れになったんですよ(笑)」
――それで高校時代はレスリングを経験したと。結果はどうでした?
「一応、フリースタイルで国体や団体戦でインターハイにも出ました。グレコローマンスタイルでも全国大会に出ましたね、はい。当時は東京都のレベルが高くなかったので、すぐに出られちゃったという(笑)」
――いや、そんなことはないでしょうけど、高校ではどんな生活を?
「特別なことはなかったんですけど、強いて挙げると文化祭で『デスマッチ展示会』をやったっていう」
――デスマッチ展示会!?
「ウチは男子校で特に自己主張のないクラスで、文化祭でも特に誰も何も言わなかったんです。そしたら担任の先生が『なんでもいいから書け』と。だからふざけて、『デスマッチ凶器展示会』って書いたら、それがなぜか採用されて」
――凶器っていうと、有刺鉄線バットとか?
「そうです。有刺鉄線ボードとか釘バットをお手製でつくって展示しながら、デスマッチの歴史の映像をつくって流すとか、デスマッチの歴史年表をつくるとか」
――アントニオ猪木VS上田馬之助のネールデスマッチ(1978年2月8日、日本武道館)も?
「そうです。日本初の、とか入れながら。当時の担任の先生がプロレスマニアで、そこそこ理解があったので」
――あ、それで。
「なので自由にやらせてもらったのはありますね。案の定、あんまり人は来なかったですけどね(苦笑)」
――まあ、なかなか来づらいですよね。
「なかなかあり得ない話ですからね」