スーツで7000メートル登頂の“命知らず” ガイドが必死に止めても…24日間1着で通した鉄人「破れはありませんでした」

ピシッとしたスーツに赤ネクタイ、足元は革靴で手にはビジネスカバン……。オフィス街を駆けるビジネスマンさながらの格好で、日本百名山や名だたる海外の高峰など、過酷な山への挑戦を続ける経営者がいる。1923年創業の紳士服総合販売店「オーダースーツSADA」の4代目・佐田展隆社長が、このほど標高6961メートルの南米大陸最高峰・アコンカグア登頂を果たした。昨年末の出国後、一時は雪崩の危険から撤退を余儀なくされたが、滞在期間を伸ばし再挑戦、約1か月にも及ぶ長期遠征の成果。ENCOUNTは出国前から低酸素トレーニングを重ねる佐田社長に密着取材、以下は取材に基づく、佐田社長視点での快挙のレポートだ。

自社製のスーツ姿でアコンカグア山頂に立つ佐田社長【写真:インスタグラム(@ordersuitsada)より】
自社製のスーツ姿でアコンカグア山頂に立つ佐田社長【写真:インスタグラム(@ordersuitsada)より】

昨年12月27日に羽田を出国、帰国は年明け1月25日という約1か月間の長期遠征

 ピシッとしたスーツに赤ネクタイ、足元は革靴で手にはビジネスカバン……。オフィス街を駆けるビジネスマンさながらの格好で、日本百名山や名だたる海外の高峰など、過酷な山への挑戦を続ける経営者がいる。1923年創業の紳士服総合販売店「オーダースーツSADA」の4代目・佐田展隆社長が、このほど標高6961メートルの南米大陸最高峰・アコンカグア登頂を果たした。昨年末の出国後、一時は雪崩の危険から撤退を余儀なくされたが、滞在期間を伸ばし再挑戦、約1か月にも及ぶ長期遠征の成果。ENCOUNTは出国前から低酸素トレーニングを重ねる佐田社長に密着取材、以下は取材に基づく、佐田社長視点での快挙のレポートだ。(取材・文=佐藤佑輔)

 出国は日本時間12月27日の夕刻。なじみの登山ガイドに紹介してもらった、北海道出身のツアーガイド・Aさんと2人、羽田空港から日本を発った。ロサンゼルス、チリ・サンティアゴを経由し、トランジットを含め40時間弱という長時間のフライト。時差の関係もあり、アルゼンチン・メンドーサ空港に到着したのは現地時間の28日正午だった。

 滞在初日、2日目は現地での手続きや装備の最終チェックに追われた。3日目、トレールヘッド(登山口)から徒歩4時間弱の道のりを進み、標高3400メートルの「コンフルエンシア(合流地)」キャンプ地に到着。富士山と同じくらいの標高だが、南半球ということもあり、日中は20度以上、半袖1枚でも十分なほどの気温だった。

 ところが、夜になると一気にマイナス10度近くまで冷え込み、時折雪がちらつく空模様に。今回のツアー参加者は11人。アメリカ人が5人と、ヨーロッパから来た登山者が3人、日本からは私と同行ガイドAさんの他に、もう1人若い男性が来ていた。これに現地ガイド3人、荷上げのポーターが4~5人つき、総勢20人ほどで行動を共にすることになった。

 滞在4日目は高度順応も兼ねて標高4000メートルの展望台まで歩き、アコンカグア南壁を拝観した。この日は大みそか。厳しい冷え込みの中、現地ご自慢のワインや牛肉で、壮行会を兼ねたささやかなパーティーに興じた。標高3400メートルのコンフルエンシアと、ひとつ先のベースキャンプまでは、ラバやヘリでの荷上げがあるため、食料も豊富なのだと聞いた。

 5日目の元日はメディカルチェックのため休養。6日目に約8時間かけて標高4300メートルのベースキャンプ「プラザ・デ・ムーラス(ラバの集会所)」に進む。7日目も高度順応のため休息。8日目にはアコンカグアと相対する形でそびえる、約5000メートルのボネッティ峰を往復した。序盤は高度に体を慣らすため、少しずつ標高を上げていくのだという。

 9日目。C1(第1キャンプ)の「プラザ・カナダ」まで荷上げしたあと、やはり体を慣らすために一度ベースキャンプに戻る。10日目にメディカルチェックを挟み、翌日に再びプラザ・カナダへ。本来、この時期はC2までほとんど雪がないそうだが、この日の夜にかなりの量の積雪があり、翌朝には辺り一面がすっかり雪景色に変わっていた。ピッケルはベースキャンプに置いてきてしまったので、登山靴にアイゼンをつけ、ダブルポールで慎重に歩みを進める。

 12日目。標高5500メートルのC2「ニド・デ・コンドレス(コンドルの巣)」まで進む。翌日はこの先数日の天候を考慮し1日停滞。明くる14日目は朝から暴風で、なんとか標高6000メートルのアタックキャンプ「プラザ・コレラ」にたどり着いた。異変を感じたのは、テントの中でほっと一息ついた後。ずっと同行していた日本人の若い男性の姿が見えない。スタッフに聞くと、参加者の日本人男性とアメリカ人の女性は高度障害(酸素不足により起こる頭痛、吐き気、めまいなどの症状。高山病)が出ており、とても登頂できるような状態ではなかったため途中で下山。C2で駆け付けたヘリにより病院へ向かったという。ここまで苦楽を共にした仲間だけに、パーティー内にも重苦しい空気が流れた。

 入国から15日目、いよいよサミットアタックの日が巡ってきた。午前3時に起床し、5時前にキャンプを出発。10~12時間の行動で標高6000メートルから一気に1000メートルを上げ、山頂を制覇したのち最終キャンプまで戻ってくるという計画だ。当日は快晴、無風。現地ガイドからは「お前ら神に愛されてるな!」と威勢のいいかけ声が飛んだ。腰まで埋まるような雪だまりのなか、先行ガイドがラッセルして作ってくれた道を続く。

 6500メートルより少し手前にある大トラバース(斜面を水平に移動すること、またはその地形)の絶壁を進み、サミットガイドとサミットサポーター、日本からの同行ガイドAさんと4人、本隊と離れ別行動で先を急ぐ。ペースを上げ、アコンカグア最大の山場「グラン・カナレーター」に差し掛かるまであと少しというところで、先行する他のパーティーに追い付いた。ラッセルの跡は続いているのに、なぜかその場に停滞していて、ガイド同士が何やら話し合っている。ほどなくして遅れていた本隊も合流し、その場で70~80人で足止めされているような状態。現地の言葉で話している内容は分からないが、不穏な気配は感じていた。

「残念だが、この先はもう無理だ」「雪崩が来るかもしれない」

 ベテランガイドが下した撤退の判断に、言葉がなかった。そんな、まさか。「お前ら神に愛されてる」と言ってたじゃないか。アタックキャンプまで戻り、1泊したのち下山する決定が下されたが、私も他のメンバーもとてもその場所に留まる気にはならず、許可を得て、その日のうちにベースキャンプのプラザ・デ・ムーラスまで駆け下りた。

あと一歩で無念の撤退…リベンジ巡り、ガイドと“大げんか”も

 16日目はベースキャンプで残念会が行われたが、私は一人荒れていた。「なぜダメなんだ!」「一度帰国したら、せっかくの高度順応が切れてしまう」。あまりの悔しさで取り乱す私に、現地ガイドがある提案をした。「そこまで言うなら、お前一人だけ残るか? 雪崩が落ち着いた後だったら、お前の体力なら3日もあれば登れるぞ」。1週間滞在を伸ばせば、行けるかもしれない。一筋の光が差した瞬間だった。

「絶対にダメです」

 日本から同行してくれたガイドのAさんは猛反対。だが、私だって引くに引けない。「現地ガイドは行けると言ってるじゃないですか」「自覚のないダメージもある。本当に危ない」。押し問答の末、ついには「死んでもいいんですか!」と怒鳴られ、大げんかになってしまった。Aさんには申し訳ないが、どうしてもここで引き下がるわけにはいかない。幸いWi-Fiがつながったので、私の性格もよく知る紹介元の親しいガイドに間に入ってもらい、Aさんの説得を試みる。結局、「ツアーからは離脱する」「今後何があっても自己責任」と調書を取り、Aさんはしぶしぶと帰国していった。

 再出発は18日目。ベースキャンプからC1を飛ばし、一気にC2まで歩みを進めた。今回はブラジル人5人、ヨーロッパからの登山者が4人というパーティーに私が飛び入り参加し、10人のメンバーにガイドを加えた編成で山頂を目指すことになった。C2で迎えた19日目は前回同様、天候を見るために1日レスト。20日目にアタックキャンプのプラザ・コレラへ舞い戻る。

 ベースキャンプを出発前、ガイドは「溜まった大雪は3日もあれば溶ける」と豪語していた。標高6000メートル近いプラザ・コレラの夜は連日マイナス30度。にわかには信じられなかったが、ガイドの言う通り、6日ぶりのコレラは全くの別世界で、ところどころ地肌がのぞく雪と岩のミックスになっていた。今度こそ行けるかもしれない。翌21日目、私のサミット・リベンジが幕を開けた。

 前回同様、午前3時に起床し、5時にテントを出発。大トラバースの手前では朝日がのぞいた。前回とは打って変わり、全日程の中でも最も風が強い日で、場所によっては風速50メートル近い爆風が吹き荒れる。下からの吹き上げのため、あおられて滑落するような心配はなかったが、とにかく寒い。ウールの手袋にミトンのオーバーグローブを重ねても、かじかんだ指先はなかなか感覚が戻らない。

 ガイドリーダーは今回、一番タフだという専属のサミットガイドをつけてくれた。サミットガイドとポーターに付き添われ、本隊と離れて先へ進む。途中、どこかの国のアーミー部隊と思われる一行に追い付いたが、体力自慢のサミットガイドは「こいつらも抜いていくぞ!」とどんどん先へ。そのまま最大の難所、グラン・カナレーターに突入する。最大斜度40度を超えるという急斜面のザレ場で、酸素濃度は地上の約42%ほどという過酷な急登。心臓破りの急斜面は体に堪えたが、溝のようになった地形のためか、途端に風が落ち着き、辺りには静けささえ感じられた。イモト・アヤコさんが撤退したのは、ちょうどこの辺りだっただろうか。

 たどり着いた山頂は、雪もなく、だだっ広い平地にぽつんと標識が立っているだけという光景。「お前は強かった! ベリーストロング!」。ガイドに促され、抱き合って喜びを爆発させる。高度障害の危険があり、絶景の山頂も滞在は数分。遅れてきた同じパーティーのベルギー人に「もう少しだ、バーモス(頑張れ)!」と声をかけ、南米最高峰を後にする。結局、10人いた今回の参加者も、サミットを踏めたのは私とそのベルギー人だけだったと後になって聞いた。

肝心のスーツは「下山までの24日間、ずっと同じ1着を…」

「地球の裏側で、一生に一度の体験。予定外に滞在は伸びましたが、とにかく登れてよかった」

 空調の効いた都内のオフィス。佐田社長はそう言って真っ黒に日焼けした顔をほころばせた。富士山に始まり、槍ヶ岳や剱岳といった日本アルプスの名峰、ヨーロッパ最高峰のモンブラン、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに次いで、今回南米最高峰のアコンカグアを制覇。いよいよ世界最高峰、エベレストの頂が見えてきた。

「私ももう51歳。体力面での衰えもあるので、55歳までにはと思っている。その前にマナスルか、チオユーか……。次の遠征はまだ未定ですが、『いつかは……』という夢ではないところまでは来ていると思います」

 取材ではすっかり山の話に聞き入ってしまったが、ところで、肝心のスーツの着心地はどうだったのか。水を向けると、驚きの答えが返ってきた。

「出国から下山までの24日間、ずっと同じ1着を着続けていました。シャツや下着は3枚くらいを着まわして、標高が高くなってからは上にハードシェル(登山用ジャケット)を羽織っていましたが、それ以外は休息日も、アタックキャンプで寝るときもスーツ。登山道ですれ違う人には『ナイススーツ!』と声をかけられ、『スーツ姿の変な日本人がいるぞ』と何度も記念写真を頼まれました。

 さすがに帰国の飛行機でも同じスーツを着るわけにはいきませんから、下山してからは予備の1着に着替えましたが、ちょっと匂うかな? というくらいで、破れやヨレはありませんでした。やはり、うちのスーツは世界一だと思います」

 ちゃっかり自社製品のアピールも忘れない経営者魂。登山家から実業家の顔に戻ったこの男、やはりただものではない。

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