【プロレスこの一年 ♯10】高田VS天龍 神宮球場の夏、Uインター最後の夏 1996年のプロレス
新日本プロレスが8月29日、新型コロナウイルス禍にありながらも1999年8月28日以来、実に21年ぶりの野外スタジアム大会を開催した。東京・神宮球場で新日本が試合をおこなうのはメイン(蝶野正洋VS橋本真也)後の「第ゼロ試合」として決行されたグレート・ムタVSグレート・ニタ(大仁田厚)の「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」以来、2度目のことだった。
平成8年(1996年) Uインターが神宮球場2連戦も年末に最終興行
新日本プロレスが8月29日、新型コロナウイルス禍にありながらも1999年8月28日以来、実に21年ぶりの野外スタジアム大会を開催した。東京・神宮球場で新日本が試合をおこなうのはメイン(蝶野正洋VS橋本真也)後の「第ゼロ試合」として決行されたグレート・ムタVSグレート・ニタ(大仁田厚)の「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」以来、2度目のことだった。
神宮では新日本のほか、高田延彦をエースとするUWFインターナショナルも3度にわたり大会を開催した。初回は93年12月5日でメインは高田VSスーパー・ベイダーのプロレスリングヘビー級選手権試合。2度目は96年8月17日の「“挑戦”神宮花火ジャック」で高田VS“200%男”安生洋二のシングルマッチがメインだった。しかも3度目は1か月も経たない9月11日で、事実上の神宮2連戦。全日本の川田利明が高山善廣とシングルで激突し、メインでは高田がWARの天龍源一郎からギブアップを奪い、「旗揚げ5周年記念興行ファイナル」を飾ってみせた。では、Uインターが一年で、しかも1か月で2度も同じスタジアムで試合をした96年とはいったいどんな年だったのか。
イメージでは前年の10・9東京ドームで決着が付いたと思われる新日本とUインターの団体抗争だが、96年も対抗戦は継続されていた。年頭の新日本1・4東京ドームでは高田が武藤敬司に雪辱を果たし、IWGPヘビー級王座を奪取した。高田は3月1日、ホームリングの日本武道館大会に越中詩郎を迎え撃ち王座防衛に成功。しかし新日本4・29ドームで王座陥落。新日本の至宝を取り戻したのは橋本だった。
この年、Uインターはさまざまな外交政策に打って出ていた。5・27武道館では高田がかつての師匠である藤原喜明から勝利。天龍のWARでは高田が垣原賢人、佐野友飛とのトリオでトーナメントに出場し、WAR認定6人タッグ王座を奪取した。高田は東京プロレスのリングにも上がり、10月8日の大阪でアブドーラ・ザ・ブッチャーとシングルマッチで対戦した。が、迷走の気配が漂ってきたのもこの年で、同日には安生が石川敬士を破り東プロ社長に就任するも、2か月後の両国で辞任を表明。安生&高山&山本健一のゴールデンカップスがコミカル路線によりマット界で一世を風靡したのも事実だが、旗揚げ当初から掲げてきた「最強」のキャッチフレーズにブレが生じ、「プロレスこそ最強」を支持する熱狂的ファンとの間に軋轢が生まれたのもまた、実際のところだった。
そしてUインターは12月27日の後楽園大会前に会見を開き、団体の解散を発表。高田VS高山をメインとしたこの日の大会が最終興行となってしまった。ボクシングの元世界ヘビー級王者トレバー・バービック、元横綱・北尾光司との対戦や、メジャー団体のエースに呼びかけた1億円トーナメントなど、さまざまな爆弾を投下してきたが、約5年半で活動停止。翌年5月にはUインターのメンバーによりキングダムが旗揚げされるも、長続きはしなかった。
96年は、総合格闘技がマット界に本格侵攻する前年としても位置づけられるだろう。7月14日にはUインターの桜庭和志がアルティメットルールで総合格闘家キモとシュートボクシングのリングで対戦。キモはUインター8・17神宮でプロレスのリングにも上がり、高山から勝利を奪っている。また、キモはアルティメットのリングで新日本の常連外国人クラッシャー・バンバン・ビガロを迎えて勝利。振り返ってみれば、翌年の高田VSヒクソン・グレイシーに向けての不気味な予告編でもあったわけだ。