高校生でジャンプに6本掲載の実績→岡山から上京で直面した漫画家・平松伸二の過酷な現実「吐きながらペン入れ」

1974年、漫画原作者・武論尊氏とタッグを組んだ『ドーベルマン刑事』がヒット。以降も、『ブラック・エンジェルズ』、『マーダーライセンス牙』など、“外道”をさばく勧善懲悪をテーマにした作品を描き続けてきた平松伸二先生。岡山県で生まれた青年は、なぜ漫画家を志したのか。平松先生本人に聞いた。

インタビューに応じた平松伸二先生【写真:ENCOUNT編集部】
インタビューに応じた平松伸二先生【写真:ENCOUNT編集部】

初投稿作が週刊少年ジャンプの月例賞で佳作を獲得

 1974年、漫画原作者・武論尊氏とタッグを組んだ『ドーベルマン刑事』がヒット。以降も、『ブラック・エンジェルズ』、『マーダーライセンス牙』など、“外道”をさばく勧善懲悪をテーマにした作品を描き続けてきた平松伸二先生。岡山県で生まれた青年は、なぜ漫画家を志したのか。平松先生本人に聞いた。(取材・文=関口大起)

「出身は岡山の山奥にあるど田舎です。お店もほとんどないようなところだから、本屋さんだって当然ない。だけど年に数回、父親が漫画を買ってきてくれたんです。それを何度も読んで、模写してね。家の壁にも絵を描いちゃって、じいさんに怒鳴られたのを覚えています」

 まだ、漫画が“子ども向けの娯楽”と思われていたような時代だ。ただそんな中でも、平松先生の両親は漫画に対して寛容だったという。読むことに対しても、描くことに対しても、だ。しかしその背景には、平松先生の努力と才能、そして確かな実績があった。

「スポ根漫画にすごく影響を受けて、もう俺は漫画家になるぞと。中学2年生くらいのときから漫画を描いていました。それで中学3年生のとき、はじめて投稿した31ページの読切作品で週刊少年ジャンプの月例賞の佳作を獲ったんです。あ、俺天才かもなんて思い上がったりして(笑)」

 中学生にして読切漫画を描き上げる。しかも、漫画賞への初投稿作で佳作を受賞する。その実力はもちろん、行動力にも驚かされるエピソードだ。その原動力はどこから生まれたのだろうか。

「授業中、教科書とかに落書きするじゃないですか。ある時、“人が殴られて壁にぶつかるシーン”を想像しながら描いたら、頭の中の映像が右手を通じてちゃんと絵になった。この経験は自信になりましたね。で、賞も取れたもんだから勢いに乗って、どんどん作品を描いていきました」

 その結果、高校1年生にして『勝負』という野球漫画が週刊少年ジャンプに掲載される。そして高校在学中には、計6本の作品が掲載されたという。実は、のちに『ドーベルマン刑事』でタッグを組む武論尊先生とは、このときにも作品を作っていた。そのタイトルは『限界30球!』。『勝負』と同じく野球漫画だ。

『アストロ球団』の現場で見た想像を超える漫画家の過酷さ

 平松先生は、輝かしい実績を持って高校卒業後に上京。自信にあふれ、漫画家になるべく一歩を踏み出した先生だったが、とある現場を経て、一気に不安を抱えることとなる。

 それが、助っ人アシスタントとして参加した『アストロ球団』の中島徳博先生の仕事場だった。

「漫画家の仕事がキツイというのはわかっていました。でも、中島先生が疲労とストレスでゲエゲエ吐きながらペンを入れているのを見たり、自分より全然絵がうまい人がたくさんいるのを知ったりして、とにかく怖くなっちゃって」

 先生は当時、まだ19歳。想像を超える過酷な環境と、激しい競争社会に恐れ慄いても無理はない。そんな中、中島先生が体調を崩す。『アストロ球団』は休載となったが、月刊ジャンプに掲載予定だった読切39ページをどうするか……。白羽の矢が当たったのが、平松先生だった。漫画家の卵にとって、これとない好機だ。

「本当に怖かった。自信がなくて、ネームがなかなかきれなくてね。『僕には無理です!』なんて言いかけたのを飲み込んで、ギリギリ描きあげました。まあ、担当編集が恐ろしい人で、間違ってもそんな弱音を吐ける関係じゃなかったんだけど(笑)」

 平松先生が恐怖と戦いながら描いたこの作品が、のちに大ヒット作『ドーベルマン刑事』につながることになった。

次のページへ (2/2) 【写真】平松伸二先生が描いた迫力ある“ミスターレディー”
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