開催から30年 WWF・新日本・全日本が手を組んだ奇跡の大会「日米レスリングサミット」を振り返る

今からちょうど30年前の1990年(平成2年)4月13日、東京ドームにおいて画期的なプロレスイベントが実現した。WWF(現WWE)が全日本プロレス、新日本プロレスとタッグを組み、3団体共催「日米レスリングサミット」を開催したのである。

新日本で活躍しWWFのトップスターとなったハルク・ホーガン /(C)2020 WWE, Inc. All Rights Reserved.
新日本で活躍しWWFのトップスターとなったハルク・ホーガン /(C)2020 WWE, Inc. All Rights Reserved.

世界のメジャー団体が一致団結した一夜限りの奇跡の大会

 今からちょうど30年前の1990年(平成2年)4月13日、東京ドームにおいて画期的なプロレスイベントが実現した。WWF(現WWE)が全日本プロレス、新日本プロレスとタッグを組み、3団体共催「日米レスリングサミット」を開催したのである。

 前年の89年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成に移行した。年号が変わっただけではなく、プロレス界も当時は大きな変革の時期を迎えていた。4月24日には新日本が東京ドーム初進出。共産圏のソビエト連邦(現ロシア)からレッドブル軍団をプロレスデビューさせるなど、ここからさまざまな壁が取り払われていく。パイオニア戦志を皮切りに、FMWの大成功からインディー団体が次々旗揚げ、第二次UWFの人気がピークに達したのもこの頃である。また、世界史的にも東西ドイツでベルリンの壁が取り払われ、90年1月には全日本・ジャイアント馬場と新日本・坂口征二によって冷戦終結と協調路線がアナウンスされた。新日本の2・10東京ドームにはリック・フレアーのキャンセルから全日本の5選手(ジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、2代目タイガーマスク、谷津嘉章)が急きょ参戦。それまではあり得なかった両団体の対抗戦が行われる事になったのだ。

 その2か月後、さらにありえなかったビッグイベントが現実のものとなる。日本侵攻を視野に入れていたWWFのビンス・マクマホンJr.(現WWE代表取締役会長)だが、単独開催はリスクが大きすぎると判断、日本の団体に協力を仰いだ。2・10とは反対のパターンで今度は全日本の方から協力を要請し、新日本が受諾する形となったのである。

 当初はハルク・ホーガン VS テリー・ゴディの一騎打ちが予定されていたのだが、新日本で成長しWWFのスーパースターとなっていたホーガンに、当時のゴディの成長ぶりや世界的実績はともかく、バランスが合わなかった。ホーガンの快勝が目に見えていたからだ。

 よって、直前になってホーガンの相手はスタン・ハンセンに変更。新日本時代にタッグを組んでいた両雄は立場を進化させての一騎打ちに臨むことになった。ホーガンはこの時すでにWWFを代表するアメリカンプロレスの象徴で、ハンセンは新日本、全日本の両団体でトップを張る日本育ちのエース外国人に上り詰めていた。それだけにドームのメインにふさわしいカードであり、2・10でハンセンがビッグバン・ベイダーと超絶なる死闘を繰り広げたことも期待感に拍車をかけた。ホーガンのアックスボンバーとハンセンのウエスタンラリアットという、ほぼ同型の必殺技対決は2人の関係性からも見る側の思い入れ度を増長する。唐突に組まれたことが惜しまれるものの、アントニオ猪木を通過して向き合ったホーガン VS ハンセンが日本人好みのカードであったことは間違いない。

 試合はハンセンを日本サイドとして見たファンが多くを占め、ホーガンにはアウェー感のある戦いとなった。ハンセンの猛攻で額から流血したホーガンだが、最後はアックスボンバーで3カウントをゲット。「日米レスリングサミット」のメインを勝利で飾ったのは、WWFの“リアル・アメリカン”ハルク・ホーガンだった。

 ホーガンをはじめWWF勢が多数参戦したなかで、“マッチョマン”ランディ・サベージも、もうひとりのリアル・アメリカンと言えるだろう。サベージは80年代のWWFを支えたスーパースターの中のスーパースター。パステルカラーのコスチュームをはじめ、エンターテインメント性に富んだショーマンスタイルでアメリカンプロレスの象徴となっていた。その男が日本のプロレスを代表する天龍源一郎とシングルマッチで激突する。

次のページへ (2/3) 大観衆が熱狂した天龍とサベージの一戦
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