早見優が明かす「花の82年組」への思いとは 「夏色のナンシー」で激変した周囲の評価
歌手の早見優がデビューした1982年の同期生は「花の82年組」と呼ばれ、80年代を代表するアイドルが数多く生まれた年でもあった。そんな80年代は、早見にとって人生でもっとも忙しくて華やかだった時代であり、後半に差し掛かるとアイドルから歌手へと成長していったターニングポイントの時代でもあった。
「夏色のナンシー」で景色が一変
歌手の早見優がデビューした1982年の同期生は「花の82年組」と呼ばれ、80年代を代表するアイドルが数多く生まれた年でもあった。そんな80年代は、早見にとって人生でもっとも忙しくて華やかだった時代であり、後半に差し掛かるとアイドルから歌手へと成長していったターニングポイントの時代でもあった。(取材・構成=福嶋剛)
デビュー1年目の1982年は新人賞レースの年でした。2枚目のシングル「Love Light」が新人賞レースの候補曲だったので、その次に3枚目のシングル「アンサーソングは哀愁」をリリースしましたが、その年はずっと「Love Light」を歌っていた記憶があります。
当時はまだ15歳の子どもだったので、賞レースやヒットチャートについてよく分かってなくて、私は全然気にしていませんでした。ところが翌年の83年にリリースした5枚目のシングル「夏色のナンシー」が初めてトップ10圏内に入ったときは、さすがに周りの人たちの変化を感じました。
デビューからお世話になっていた月刊誌の写真がモノクロから急にカラーページになったり、衣装さんから取材用に用意してくださった衣装を「持って帰っていいよ!」と言われて「えっ? いいんですか?」ってビックリしたり。そんなちょっとした変化を1つとっても「ヒットするってこういうことなんだ」って子どもながらに感じましたね。
「夏色のナンシー」のサイン会で広島か岡山に行ったときの話です。私のサイン会は、これまでだいたい30分で終わるくらいの人数だったので、スタッフさんもあらかじめ用意した数の色紙を机に置いて「これで十分」と思っていたようですが、ちょうどその頃、「夏色のナンシー」がコカコーラのCMソングとしてテレビで流れ初めたんです。すると、ものすごい数の人が会場に集まってきて、それを見たレコード会社の人が慌てて「この数じゃ全然足りないからもっとサインを書いて!」って。今まで見たことのない山積みの色紙がドン! と机の上におかれて、結局、2時間以上かけて必死にサインをしてファンの皆さんにあいさつしたのを覚えています。
その帰りのタクシーの中で運転手さんがラジオをつけたら、偶然「夏色のナンシー」が流れてきたんです。するとラジオのDJが、「ちょうど今、早見優さんがこの街にサイン会で来てるんですよ」と話していて、それを聴いた運転手さんが「この歌は絶対ヒットするよ!」って言っていただいたんです。うれしかったですね。