ウクライナから日本まで過酷な2週間の道のり 英語も話せない母を迎えた娘の思いとは
ウクライナ出身で都内在住の民族楽器「バンドゥーラ」奏者のカテリーナさんがこのほど単独取材に応じ、ウクライナの首都キエフからポーランド経由で日本に約2週間かけて避難してきた母・マリヤさん(68)から聞いた避難の実態や母国への思いを明かした。国外へ退避するウクライナの人々に今、何が必要なのかを尋ねると「優しさ」だという。母は3月6日にキエフを出て3月21日に日本に到着していた。
都内在住でウクライナ出身のバンドゥーラ奏者・カテリーナさんが母の実体験明かす
ウクライナ出身で都内在住の民族楽器「バンドゥーラ」奏者のカテリーナさんがこのほど単独取材に応じ、ウクライナの首都キエフからポーランド経由で日本に約2週間かけて避難してきた母・マリヤさん(68)から聞いた避難の実態や母国への思いを明かした。国外へ退避するウクライナの人々に今、何が必要なのかを尋ねると「優しさ」だという。母は3月6日にキエフを出て3月21日に日本に到着していた。(取材・文=中野由喜、取材協力:カロスエンターテイメント)
「キエフの街はもうタクシーどころか車もほとんど走っていません。外に出ることさえ危険な状態。もう外に出られないと母は落ち込んでいましたが、そんな中、友だちが車を見つけてくれて何とか駅まで移動し、キエフから列車でウクライナの西の街・リビウまで12時間かけて移動したそうです。列車は避難者であふれ、母は12時間ずっと立ちっぱなしだったそうです。夜、リビウに着くと、すぐに歩いてポーランドに向かい、国境を越えてポーランドに入るまでに6時間。極寒の真夜中に6時間歩いたんです」
68歳の女性には、気力も体力も限界だっただろう。
「母にはかなりきつくて、何度か転んで倒れたそうです。あきらめようかと思ったと話していました。そんな時、知らない夫婦が助けてくれて、荷物を持ち、手を引いてポーランドの避難所まで一緒に歩いてくれたそうです。そのご夫婦に出会わなかったら母は途中であきらめたと思います」
過酷な移動の末、到着したポーランドの避難所はどんな様子なのだろう。
「最初の避難所は体育館のような場所で、布団がたくさん敷いてあって、知らない人同士がくっついて横になるような状態。ただ、ご飯は自由にいつでも食べることができ、服や靴の支給もあったと言います。その避難所に3日いて、その後、市街地に近い別の避難所にシャトルバスで移動したと話していましたが、そこはかなり大勢の人がいて、食事は出遅れて列の後ろに並ぶと食べたい物は残っていなかったそうです」
再会時の思いをあらためて聞いた。
「母が無事に日本に着くまで私も不安で怖かったです。やっと到着して、すごくうれしいし、もうこれからは母に何の心配もない日常生活を送らせてあげたい」
母は2018年11月に来日したことがあり3年4か月ぶりの母娘の再会。当然、パスポートを持っていた。他の避難者たちはどうなのか。
「ウクライナの人みんながパスポートを持っているわけではありません。持っていてもロシアの侵攻で家とともにパスポートを失った人もいます。迎え入れようとする日本にいる知人もどうしたらいいのかと困っていました。こういう状況ですから日本のウクライナ大使館も多忙で、なかなか連絡が取れないようでした」