あれから21年… 闘龍門同窓会興行 ミラノコレクションA.T.も帰ってきた!
メキシコで産声を上げたプロレスラー養成学校「闘龍門」。その日本逆上陸からちょうど21年後の2020年1月31日、ところも同じ東京・後楽園ホールにて同窓会興行「闘龍門、再会」が開催された。場内は、まるであのときにタイムスリップしたかのような超満員の大盛況だった。
照明、音楽、進行… あの頃の懐かしい雰囲気が会場を包んだ
いまから21年前の1999年1月31日は、日本のプロレス界にとって革命的な一日だった。あれから21年後のこの日、あのときの出来事がいかにその後のマット界に影響を与えたのか、あらためて記憶されることになるだろう。いまでは主要団体のほとんどでウルティモ・ドラゴンの教えを受けた選手がトップを張っている。考えてみてほしい。闘龍門がなかったら、日本のプロレスはどうなっていたか? ウルティモがレスリングスクールを始めなかったとしたら、どれだけの才能が埋もれたままだったか?
メキシコで産声を上げたプロレスラー養成学校「闘龍門」。その日本逆上陸からちょうど21年後の2020年1月31日、ところも同じ東京・後楽園ホールにて同窓会興行「闘龍門、再会」が開催された。場内は、まるであのときにタイムスリップしたかのような超満員の大盛況。
懐かしさが込み上げてきたのは闘龍門のロゴ入りマットだけではない。進行や音楽など、さまざまな部分において当時の様子が再現されていた。しかも、多くの選手が闘龍門で活躍していた頃そのままのムーブをキープしているではないか。みんな平等に20年あまりの歳を重ねているにもかかわらずだ。これもまた、闘龍門で学んだ成果と言えるのではなかろうか。
対戦カードのほとんどは当日発表。オープニングで選手入場式がおこなわれると、闘龍門ではじめて本格的ユニット闘争を持ち込んだM2Kが現れた。リーダーの望月成晃は校長を挑発。実はオリジナルM2Kが飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃、ウルティモは長期欠場で試合をしていない。つまり、望月成晃&神田裕之&望月享(横須賀ススム)のトリオはこの機に乗じてウルティモとの対戦を実現させようとしたのである。この例からしてもわかるように、今大会は懐かしさだけを追ったものではなかった。当時果たせなかった夢のカード。そういったものを実現させるのも、同窓会大会の見どころでもあったのだ。
2000年代のプロレス界で行われた数々の新機軸
かつて闘龍門では世代別でウルティモ考案のプロジェクトが実行された。1期生から3期生までの逆上陸組に、興行会社が起ち上げられて以降の4期生までが「闘龍門JAPAN」。メキシコで習得されたジャパン勢の空中技に対抗するように誕生したのが「T2P」だ。ルチャリブレもうひとつの顔といえる関節技”ジャベ”を武器に2001年11月に逆上陸したT2Pは、5期生から8期生でかためられた。普通に考えれば後輩にあたるT2Pが先輩ジャパンに勝てる可能性は極めて低い。だが、(六角形のリングを含め)まったく異なるスタイルによりキャリアの差は埋まって見える。団体内における団体対抗戦の図式。これもまた、闘龍門が提示した新しいプロレスの形だった。
2003年8月に逆上陸を果たした9期生以後の「闘龍門X」では、オリジナルレスラーのミニバージョンというメキシコならではのカテゴリーも日本に紹介された。世代の縦軸に加えた、横軸のユニット闘争。これらの交差が、20年1月31日の闘龍門だった。
第1試合のTARU(Xの正体)&スモー・フジ&SUWAシート(Kagetora)組VS南野たけし&高梨将弘&CHANGO組からいきなりオリジナルとミニの融合が復活した。スモー・フジ&SUWAシートの登場にかつてのユニット”クレイジーMAX”のテーマ曲が被さる。かつてはリングネーム変更が年中行事だったフジはオリジナルC―MAX時代のリングネーム。もちろんいまでも斎藤了からは「藤井さん」と呼ばれている。
第2試合は、このまま市川VS大鷲透。いつのまにか、「このまま」にリングネームが変わっていた市川だが、その姿は闘龍門時代そのままのストーカー市川。相変わらず体重は「42キロくらい」とコールされた彼の試合からは、連敗街道を脱出し初勝利を挙げた後楽園での試合を思い出した。あのとき場内を包んだ大歓声の嵐は笑いを通り越して涙を呼んだ。闘龍門はこの日のために作られたのではないか。そう思えるほどの感動だったのだ。しかし試合はそんな感慨に浸るまもなく市川がギブアップ。なんとコーナーに上がった大鷲に恐れをなしてのものだった。が、これはこれで正解。大鷲の巨体をそのまま食らっていたら、市川の選手生命はここで絶たれていただろう。