【ズバリ!近況】日本人初の2大会連続金メダリスト・上武洋次郎さんが明かす偉業を達成できた理由
東京五輪はレスリング競技の真っ最中。そこで思い出されるのが、57キロ級で1964年の東京五輪と68年のメキシコ五輪で連続して金メダルを獲得した上武洋次郎さん(78)だ。05年には国際レスリング連盟の殿堂入りを果たし、今や伝説の人。メキシコ五輪後、結婚して小幡姓になり、現在、栃木県足利市のホテルで相談役を務めつつ、悠々自適の日々を送る小幡さんに、当時の話を聞いた。
レスリングは階級別に分かれているのが気に入った
東京五輪はレスリング競技の真っ最中。そこで思い出されるのが、57キロ級で1964年の東京五輪と68年のメキシコ五輪で連続して金メダルを獲得した上武洋次郎さん(78)だ。05年には国際レスリング連盟の殿堂入りを果たし、今や伝説の人。メキシコ五輪後、結婚して小幡姓になり、現在、栃木県足利市のホテルで相談役を務めつつ、悠々自適の日々を送る小幡さんに、当時の話を聞いた。(取材・構成=坂本俊夫)
「レスリングを始めたとき、五輪に出ることを最終目標にしました。だから、それに至る話はいろいろできるんですが、五輪での話はあまりないんです」と笑う小幡さん。では、「それに至る話」を。
「中学ではテニス部。教師の父がテニス部の先生もしていて、兄もテニス部なので自然に僕も。でも、僕には物足りない。3年のとき、柔道部ができ、夏休みに出身地・群馬の館林市や邑楽郡の子どもたちを集めて館林高校で行われた午前10時から12時の1週間の練習に参加。稽古場に行くと、レスリングの練習が10時まであった。館林高はレスリングが伝統的に強く、高校生だけでなく、大学生や社会人が全国から指導や練習に来ていたんです。それを見て面白そうだなと思い、午後のレスリングの練習は何時からか、と聞くと3時。次の日から弁当持参で柔道の練習の後、レスリングをずっと見学していました」
洋次郎少年、ここで一つのことに気が付いた。当時の柔道は階級がなく無差別で小さいと不利。一方、レスリングは何階級かに分かれている。
「どうせ投げ飛ばしっこするならレスリングのほうが優勝する確率が高くなる。それで館林高に入ることにし、合格したその足でレスリング部に入部したんです。性格が向いていたようです。普段はおとなしいが、マットに上がると闘争本能が前面に出て力を発揮できるタイプなんです。で、終わるとまたおとなしくなる。マットで勇ましくやって、終わっても勇ましくしていたら疲れちゃうもんね(笑)」
金メダル後のコメントは「非常に爽やかです」
高校ではほぼ無敵。関東大会2連覇、2年次に国体優勝。3年でインターハイ優勝。そして、早稲田大学出身の正田文男氏(群馬県レスリング協会初代会長)に誘われ、早大入学。1年間レスリング部で頑張り、八田一朗日本レスリング協会会長(当時)の勧めで、レスリングの猛者が全米から集まるオクラホマ州立大学に留学する。
「父が英語の教員で小学生からラジオ講座を聞かされていたのですが、会話を理解するのに半年かかった。英語の理解力も足りないから勉強が大変。成績が悪いと奨学金が止められ、帰国しなければならないので、レスリングの練習が終わると、食事して大学の図書館で夜10時まで勉強し、部屋に戻ってからも12時までやりました。2年のとき全米学生選手権で優勝し、大学のテストを終わらせ帰国。東京五輪の予選の敗者復活戦に間に合った。予選で優勝し、本選でも6連勝し代表になりました。五輪代表になることをレスリングを始めたときの最終目標にしていましたから、うれしかったですが、それ以上の特別な感情はなく、世界の人たちと戦うんだという緊張感くらいでした。金メダルを取った翌日、選手村にマスコミの人たちが来て、僕は『今朝のすがすがしい天気のように、気持ちは非常に爽やかです』と言った記憶はあります」