【プロレスこの一年 #29】大量離脱の新日本、絶対王者不在のNOAH…混迷の2006年リングを救った2人の新チャンピオン
新日本プロレスが2年連続の東京ドーム大会を開催した。今年は新型コロナウイルスの影響もありながら、イッテンヨン(1月4日)にイッテンゴ(1月5日)を加えての2DAYSを継続。世界的な危機にも臆することなくプロレスを通じてファンに勇気を与えようという姿勢は、V字回復どころかそれ以上の発展を証明するかのようでもある。
一気に11名が去った新日本
新日本プロレスが2年連続の東京ドーム大会を開催した。今年は新型コロナウイルスの影響もありながら、イッテンヨン(1月4日)にイッテンゴ(1月5日)を加えての2DAYSを継続。世界的な危機にも臆することなくプロレスを通じてファンに勇気を与えようという姿勢は、V字回復どころかそれ以上の発展を証明するかのようでもある。
現体制に移行する前の新日本は、今では考えられないような低迷期も経験した。毎年、ドーム大会後のオフには契約更改が行われていたのだが、ここで退団者が現われるケースがたびたびあった。特に2006年は大荒れで、新日本は存亡の危機に陥ったと言っても過言ではない。では、当時のプロレス界はどんな状況だったのか。今から15年前の06年を振り返ってみる。
1・4ドームのメインはブロック・レスナーと中邑真輔によるIWGPヘビー級王座戦だった。試合はレスナーが防衛に成功し、ベルトを持ち帰った。が、これがのちに大きな問題となる。そして、1月下旬の契約更改が大荒れ。西村修、吉江豊、後藤達俊、長井満也、ヒロ斉藤、竹村豪氏、成瀬昌由、ブルー・ウルフ、長尾浩志、安沢明也が退団、さらには田中秀和リングアナウンサーも退団を表明し、2・19両国でのラストコールで新日本を卒業した。一気に11名が新日本から去ったのである。
新日本の激震はこれだけでは終わらなかった。6月には旗揚げメンバーで社長も務めていた藤波辰爾が辞表を提出する事態に。その後、西村の呼びかけによって藤波は自身が起ち上げた無我ワールドに合流する。
舞台裏の混迷はリング上にも波及した。5月13日にはエンターテインメント色を押し出す「レッスルランド」がスタート。21日に初開催された長州力プロデュースの「ロックアップ」は、対照的なスタイルで、本隊と両ブランドの差別化を図った。
ところが、IWGPヘビー級王者のレスナーが契約上の問題で来日中止。ベルトは剥奪され空位となった。新日本では急きょ、新王者決定トーナメントを開催。7・17月寒の王座決定戦は棚橋弘至とジャイアント・バーナードの顔合わせとなり、最後は2・5同所で中邑からシングル初勝利も挙げていた棚橋が勝利し、同王座を感動の初戴冠。絶対的危機に希望の光をともしてみせたのである。7・17月寒は、新エース誕生の予感に満ちていた。この出来事が、のちの新日本復活に向けてのスタートとなったのだ。
棚橋は10・9両国で天山広吉を破り初防衛に成功すると、12・10名古屋では中邑を返り討ちにしてV2を達成。IWGP王者として年を越すこととなった。
一方、NOAHにとっても06年は激動の1年となった。6月29日、絶対王者と呼ばれた小橋建太の腎臓がんによる欠場が発表されたのである。小橋は7月6日に5時間半に及ぶ手術を行い、腫瘍除去に成功。以降、闘病生活を送ることとなる。
小橋の欠場により、当初予定されていた7・16武道館のカードが変更。ここには脳梗塞で長期欠場していた高山善廣が約2年ぶりに復帰。小橋とのタッグが決まっていたのだが、非常事態に名乗りを挙げたのは前年の7・18 東京ドームで小橋と壮絶なチョップ合戦を繰り広げた佐々木健介だった。しかも健介は眼窩底骨折を隠しての参戦、高山とのタッグで三沢光晴&秋山準組と対戦した。