追悼・浅香光代さん 何度も取材した大学教授が明かす浅香さんの艶っぽい仕草

12月13日、すい臓がんで他界した浅香光代さん(享年92)。元プロ野球・野村克也監督(故人)の妻・野村沙知代さん(故人)との“ミッチー・サッチー騒動”を記憶する向きも多いだろうが、浅香さんは戦前・戦後の演劇界を盛り上げた人気剣劇女優だった。そんな浅香さんの舞台での秘話を、大衆芸能史を専門とする江戸川大学教授の西条昇さん(56)に寄稿してもらった。

浅香光代さん【写真:ENCOUNT編集部】
浅香光代さん【写真:ENCOUNT編集部】

昭和10年代には男性座長の剣劇を凌ぐほど人気だった

 12月13日、すい臓がんで他界した浅香光代さん(享年92)。元プロ野球・野村克也監督(故人)の妻・野村沙知代さん(故人)との“ミッチー・サッチー騒動”を記憶する向きも多いだろうが、浅香さんは戦前・戦後の演劇界を盛り上げた人気剣劇女優だった。そんな浅香さんの舞台での秘話を、大衆芸能史を専門とする江戸川大学教授の西条昇さん(56)に寄稿してもらった。

 12月13日に亡くなられた浅香光代さんが女剣劇の代名詞とも言うべき存在であったことは間違いないが、今、女剣劇がどんなものかを知っている人はどのくらい居るだろうか。

 大正末から昭和初めにかけて、刀による激しい立ち回りの場面を売り物にした剣劇というジャンルの演劇が流行すると、そこに目をつけた九州の興行師が主人公を女性にすることを思いつく。昭和7年に大江美智子(初代)一座、同9年には不二洋子一座が旗揚げし、その後、共に日本一の興行街であった浅草六区に進出。若い女性の座長が男役を演じ、あるいは女性の姿のままで、周囲を囲んだ男性たちをバッタバッタと斬りまくる女剣劇はたちまち大評判に。昭和10年代にはその爽快感と中性的な魅力で男性座長の剣劇を凌ぐほどの人気を集めた。

チラリズム期待する観客に「うるせいやい、この助平親父め!」

 昭和3年2月2日に現在の東京都千代田区神田で生まれた浅香は9歳で役者となり、同20年に一座を結成。戦後になって、舞台で踊りながら裸になるストリップショーが流行の兆しを見せると、川崎の劇場での「毒婦・高橋お伝」の立ち回りで足を上げて太ももを見せ、胸に巻いたサラシを落としてみせた。これが評判を呼んで、同23年には浅草松竹演芸場に出演し、念願の浅草進出を果たす。同29年に浅草ロック座に移り、翌30年には浅草・奥山劇場に座員とスタッフ合わせて100人ほどの一座を率いて出演。達者な剣さばきの不二洋子、先代に続いて早替わりが売り物の二代目大江美智子に、若さと“チラリズム”の浅香の3人は“女剣劇三羽烏”と言われ、浅草に再び女剣劇の大ブームが訪れた。

 ご本人に伺ったところによると、奥山劇場の客席からチラリズムを期待する観客の「もっと、捲ってくれー!」といったかけ声が飛ぶたびに、浅香はこう切り返したという。

「うるせいやい、この助平親父め! そんなにアタシの裸が見たけりゃ、楽屋に回って風呂場の三助でもしやがれってんだ!」

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