「あ、足がない」逆走車と衝突、理不尽に失った右脚 「絶対に看護師に戻る」奇跡の復活 「苦しみながらでも…」 不屈の人生
深夜の幹線道路をバイクで走っていたところ、2台の逆走車が向かってくる異常事態に巻き込まれた。避けようとしたが、間に合わず。立ち上がろうとして気付いた。「あ、足がない」。沖縄出身で25歳の看護師・キャンディーさんは22歳の時、逆走車との衝突事故に見舞われ、右脚切断、右大腿骨骨折と大腿骨頭の壊死、右手多発開放骨折、骨盤骨折の大けがを負った。激しい体の痛みにも苦しんだ。絶望の淵から義足で歩けるようになるまで回復。家族や仲間からのサポートを受け、看護師として現場に復帰を果たした。復活までの壮絶な道のり、前を向いて生きる思いについて聞いた。

逆走車による事故被害 ぐちゃぐちゃになった自分の右手を見つめることしかできなかった
深夜の幹線道路をバイクで走っていたところ、2台の逆走車が向かってくる異常事態に巻き込まれた。避けようとしたが、間に合わず。立ち上がろうとして気付いた。「あ、足がない」。沖縄出身で25歳の看護師・キャンディーさんは22歳の時、逆走車との衝突事故に見舞われ、右脚切断、右大腿骨骨折と大腿骨頭の壊死、右手多発開放骨折、骨盤骨折の大けがを負った。激しい体の痛みにも苦しんだ。絶望の淵から義足で歩けるようになるまで回復。家族や仲間からのサポートを受け、看護師として現場に復帰を果たした。復活までの壮絶な道のり、前を向いて生きる思いについて聞いた。(取材・文=吉原知也)
2023年7月16日午前0時過ぎ、友人を送り届けた帰り。栃木・小山市の新4号国道を、中型バイクに1人で乗って走っていた。突然の出来事だった。前方から光が近付いてくる異変に気付く。2台の車が並走してこちらに向かってきたのだ。
後に判明したのは、カーチェイス状態にあった2台の逆走車のうちの1台と、正面衝突する形で事故に遭ったという経緯だった。2台はそのまま走り去った。その後、ぶつかった車両の運転手は裁判に。ひき逃げのもう1台は今も特定には至っていないという。
絶体絶命の状況の中、キャンディーさんはとっさに車と車の間に入り込もうとしたが、間に合わずにはねられてしまった。体は宙を舞い、路上を滑っていった。
バイクを起こしに行かなければと立ち上がろうとした瞬間、自分の右大腿骨が露出しているのが見えた。「足がない」。激痛が走る中でも、新人看護師のキャンディーさんは冷静だった。動けば大量出血のリスクがあり、その場にとどまった。
通りがかった車が気付き、引き返してくれた。「すみません、救急車お願いします!」と叫んだ。仕事のことが思い浮かび、勤務先に連絡するためスマートフォンを操作しようとした。その時初めて、右手が動かないことに気付いた。ぐちゃぐちゃになった自分の右手を見つめることしかできなかった。

「小さい頃からの夢だった看護師の仕事に戻りたい。諦めませんでした」
救急搬送され、緊急手術。右脚の膝上を切断した。目を覚ました瞬間、「成功したんだ。生きててよかった」と安堵(あんど)したという。
事故の一報を受け、家族はすぐに沖縄から栃木に駆け付けた。「娘さんの命が助かるか分かりません」。そう告げられていた。母親思いのキャンディーさんは「お母さんが沖縄からどんな気持ちで来てくれたのだろうと考えたら、いたたまれなくなりました」と振り返る。
たくさんの愛情を注いで育ててくれて、感情豊かな母。だからこそ、病床にいながらも面会時間はいつも笑顔をつくった。「私がここで泣いてしまえば、お母さんが泣いてしまう。お母さんを泣かせたくない。『大丈夫だよ』と努めて明るく接していました」。
しかし、体は過酷な状況が続いていた。右脚を失った後も、幻肢痛(げんしつう)と呼ばれる、なくなった脚に感じる痛みに苦しめられた。包丁で刺されるような電撃的な痛みが出てくる。「でも足をさすることも何もできません。夜は30分に1回、痛みで起きました」。右手は1ミリも動かせない。筆舌に尽くし難い痛みと苦しみが続いた。
理不尽な形で、利き手の自由と右脚を失った。一生、車いすで生活することになるかもしれない。看護大学を出て沖縄から上京し、看護師になってまだ約3か月で、退職を余儀なくされた。「それでも、もう一度歩きたい。小さい頃からの夢だった看護師の仕事に戻りたい。私は諦めませんでした」。懸命の治療とリハビリに取り組んだ。
栃木の病院に入院して約1か月で、故郷・沖縄の病院に転院。医師の指示のもとで、切断した右脚の残った部分への荷重を徐々に増やすリハビリを根気強く続けた。荷重が増えるたびに、「早く歩きたい」と気持ちがはやるキャンディーさんを、主治医は優しく諭してくれた。
順調にリハビリが進んで義足の選択肢が出てくる一方で、心配も出てきた。右脚を切断した後も、残された右大腿骨の骨頭には壊死があった。義足を付けて体重をかけて歩くと、壊死した骨頭がさらにつぶれ、状態が悪化する可能性があった。慎重な判断が求められた。
そもそも看護師はハードな立ち仕事で、義足でやっていけるか未知数でもある。体に負担の少ないデスクワークが中心の医療の仕事に就くという今後の選択肢も示されていた。
そこまでして思いを貫く看護師の仕事。「2つの原体験」がある。中学生の時、キャンプに連れて行ってくれるなど家族ぐるみで親しくしていた知人男性ががんで亡くなった。男性の友人の看護師がお見舞いに来ては、顔を拭き、体勢を整え、細やかに世話を続けていた。幼心に「人の最期に携わるのが看護師なんだ」と実感した。それに、在宅療養で亡くなった祖父。息を引き取ったのは、誕生日の当日だった。献身的だった訪問看護師はケーキを用意してくれていたが、間に合わなかった。「最期の瞬間まで、患者さんの人生をより豊かにできるのが、看護師の仕事だと思いました」。夢への情熱を強めていった。
主治医からは何度も、義足で歩くことすらできなくなる可能性があることの説明を受けた。主治医は自分の娘のようにキャンディーさんを心配してくれた。看護師に戻ることは反対された。
それでも、答えは決まっていた。「ここで諦めたら絶対に後悔する。『この事故がなかったら、看護師として働くことができていたのに』と思いながら生きていくことは嫌。挑戦をしない生き方はしたくない。絶対に看護師に戻る」。

「お母さんの前で初めて泣きました」
事故から約3か月後に義足を作るための採型を行い、23年11月にレンタルの義足を初めて装着した。「最初は付けるだけで痛くて不快感が強かったです。5分も付けていられないくらいでした」。着実に歩行訓練を重ねて、翌24年2月には1本のつえで歩けるまでに回復。同年11月、自分専用の義足が完成した。絶望に屈せず、再び歩けるようになった。
右手は6度の手術を経て、少しずつ手を動かすリハビリを進め、握力は事故前の半分程度まで回復。現在は、日常生活をおおむね問題なく送っている。
そして、看護師への復帰だ。事故当時は一度退職を余儀なくされ、「病床で、お母さんの前で初めて泣きました」というほどの悔しさをかみしめた。職場の仲間の励ましが力になった。栃木の入院先に上司や先輩がお見舞いに来てくれた。事故から4日後には、同じ病棟勤務の同僚から色紙の寄せ書きが届いた。
事故から間もないタイミングで、職場には「体はすごく痛いですが、心は元気なので大丈夫です。早く戻れるように頑張ります」と伝えていた。リハビリ中に何度か病院にあいさつに行き、回復状況を伝えた。業務に支障が出ないところまで回復を遂げた。病院に相談し、人事面接などを経て、再就職を果たした。「みんなからの応援が励みになりました」と話す。
事故から約1年5か月後の24年12月に、同じ病棟の看護の現場に戻ることができた。「朝礼で『戻ってきました』とあいさつをして、そのまますぐに仕事に入って、カルテ作成などをして……。感動の再会もなく、普通に働きました(笑)。ちょっと急ぐ時の早歩き、かがむ動作が少しつらいところはありますが、注射や採血も問題なく、支障なく働いています。患者さんには特に義足であることは伝えていません。プロとして患者さん一人ひとりの不安やつらさに寄り添う看護師になりたいです」と力を込める。
復帰して約1年9か月がたった現在、患者に義足のことを伝えることもある。現場に戻って約1か月の時のこんな経験からだ。体に入れた治療用のプレートを抜く抜釘(ばってい)の手術のため入院してきたある患者。「私の気持ちなんて分かってもらえない」と不安に陥っていた。その様子を察したキャンディーさんは、抜釘を受けた自分の右手を見せながら声をかけて安心させた。献身的なサポートを続け、その患者の手術後に、義足であることを打ち明けた。「あなたでよかった」。後日、感謝の思いをつづった手紙が届いた。
患者を不安にさせないことを前提に、必要だと感じた患者には自らの経験を伝えている。糖尿病によって足を切断した患者にも義足を見せ、「仕事にも復帰できるから大丈夫」と声をかけたこともある。“義足の看護師”として、「もちろん、患者さんの心境や状態を見極めてのことですが、自分の経験を話すことで、『頑張れるんだ』と前向きに思ってもらえることもあります。それは、私にしかできない看護のかたちだと考えています」。

もう元の体には戻れない それでも「楽しみながら、自分らしく生きていきたい」
ここまで来るのに、両親と兄、家族の存在は、何よりの支えになった。「そのままの私を見てくれて、いつも通りに接してくれました。お母さんは義足の私を山登りにも連れて行くんですよ(笑)。変えられない事実は仕方ない。私ができることは、私が前向きに生きて幸せになること。私が幸せにならないと家族に恩返しもできない。自分が自立して初めて恩返しができる。そう思っています。それに、寄り添い続けてくれた友人たちにも本当に感謝しています」。
決して悲観せず、20代の青春を謳歌(おうか)。義足で国内外の旅行やダイビングに出かけた。運転は必要な手続きを経て、大好きなバイクにも車にも再び乗れるようになった。バイクはモータースポーツの「ジムカーナ」を趣味の範囲で楽しんでいる。
職場復帰して半年後、義足の痛みと闘いながら仕事を続ける中で、ストレスも重なり、左顔面の神経まひを発症した。顔面まひは、鍼灸(しんきゅう)術を約1年間受けるなどし、快方に向かっている。
一度は奪われた日常を取り戻し、いくつもの苦難を乗り越えてきた。自身の経験を通して、同じように事故や体の痛みに悩む人たちへ向けてメッセージを伝えようと、SNSで発信し、YouTubeチャンネルを立ち上げた。今後も“伝える使命”を全うしていくつもりだ。
もう元の体には戻れない。現在も皮膚の痛みや幻肢痛は続いており、骨頭壊死に関するリスクが消えたわけではない。それでもキャンディーさんは、迷いのない口調でこう語る。
「今の自分の体で何ができるのかを考えていくことです。今も痛みでつらいこともあります。それでも、看護師に戻ることを諦めなくて本当によかったと思っています。それに、やりたいことをやらせてもらえているのは、本当にありがたいことだと思っています。周りに恵まれたなって、心から思います。苦しみながらでも好きなように生きたい。楽しみながら、自分らしく生きていきたいです」。柔らかな笑顔を見せた。
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