小川直也、最も“人間味があった”柔道家を告白 まさかの転身ぶりに「大したもんだよ」

1992年バルセロナ五輪柔道銀メダリストの小川直也が2日、自身のYouTubeチャンネルを更新。「小川直也が選ぶ最強の男ランキング!(柔道編)」というタイトルの動画をアップした。柔道時代、小川は誰を最強と考えていたのか。

小川直也が「小川直也が選ぶ最強の男ランキング(柔道編)」について語った
小川直也が「小川直也が選ぶ最強の男ランキング(柔道編)」について語った

最初に語ったのは「平成の三四郎」

 1992年バルセロナ五輪柔道銀メダリストの小川直也が2日、自身のYouTubeチャンネルを更新。「小川直也が選ぶ最強の男ランキング!(柔道編)」というタイトルの動画をアップした。柔道時代、小川は誰を最強と考えていたのか。(取材・文=“Show”大谷泰顕)

 動画内で小川が最初に名前を挙げたのは、1992年バルセロナ五輪柔道71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんだった。両者の関係を知る者であれば、当然と言えば当然の人選になる。

 小川は、「俺の中では古賀が一番、人間的なものを含めてライバル……あいつはどう思ったか知らないけど、ライバルだったのかなあと思うね」「彼の率いる講道学舎は、唯一、俺が天敵だったんだろうな」と振り返った。

 豪快な一本背負いが得意なことから「平成の三四郎」と呼ばれた古賀さんは、2021年3月24日、ガンのためにこの世を去った(享年53)。小川にとっては若すぎる別れになったが、もちろん小川は葬儀に参列した。参列者が長蛇の列をつくるなか、関係者から「特別扱いされている感じだった」と語った小川は別席に案内された。

「その時に、俺は古賀のライバルだったのかなって。ホントにそういう意味ではいい意味のライバル関係の立ち位置にいたんだな」

 体重差も20キロ以上あり、お互いに大きく階級が違うため普段は対戦することがなかった両者だったが、唯一交わることになったのは、1990年4月29日、日本武道館で行われた、全日本柔道選手権大会という無差別級の大会だった。

「俺も自分なりには頑張ったけど、重量級だから必然的に決勝まで行くのは、自分のなかの役目じゃない。でも、彼にしてみれば役目じゃないのよ。でも、柔道家としての役目は柔道家にとって憧れの全日本選手権で上まで登ること。彼はそれを純粋にやっていたからね」

 令和の今、どこまでその認識が共有されているのかは定かではないものの、当時は五輪で金メダルを取ること以上に、無差別級の全日本選手権大会に優勝することが、日本で柔道に携わる全柔道家にとっては価値のあるものだった。

「彼は天皇杯(全日本柔道選手権大会)の赤い優勝旗、いや、カップを本気で取りに来ていたからね。全身全霊を込めてさ。普通の神経じゃないよね。ナナサン(73キロ級の選手)だよ。当時は71キロ級か。さらに2キロ低いんだから。いくらその時に体重を増やしましたってさ。90、100キロにはならないよ。せいぜいあったとしても78キロぐらいじゃないのかな。それで挑んできたんだから、まあ、立派としか言いようがないよね」

小川が唯一負け越した柔道家・ドゥイエ

 そう言って小川は、すでに鬼籍に入ってしまった古賀さんを絶賛する。

「彼が最後に語っていたのは、俺の精神的な気持ちも全部知っていたから、それに屈したのが悔しかったって。ただ単に柔道の技術とかそういう話じゃないんだよ。性格と心の問題なのよ。それに自分の心が折れてしまったって。そこから彼が飛躍的にまた強くなったんでしょ」

 小川いわく、最後に古賀さんと連絡を取ったのは、亡くなる半年前だった。そこで小川は30分ほど話をしたという。

 その際に小川は、古賀さんの治療費がバカにならないと聞き、「あっち(あの世)には持って行けねえぞ、なんてくだらない話をしてたよ。そんな仲だからさ」と語った。

「気軽に電話して気軽に会おうっていう間柄だった。あえてかしこまって、何日に会いましょうとかじゃなくて、暇だったら再会しようかってそんな感じの感覚だったよ」

 また、小川は古賀さんから体調が徐々に上向きになっていると聞き、かつ古賀さんが伊豆に別荘を持っていることを知ると、「じゃあ、快気祝いをしようかって約束はしていたんだよ」「『じゃあそこの別荘に招いてくれよ』『いいよ』ってそれで終わったのよ」と口にした。

 そして、両者の関係性を踏まえた上で小川は改めて古賀さんに対して、「彼は彼で、俺に教えられたみたいなことを言うけど、いいライバル関係だったんじゃないのかな。しかも同級生っていうのはね。なかなかないでしょ」と話した。

 古賀さんに続いて、小川の口から二番目に出てきた最強の柔道家は、1996年アトランタ五輪柔道95キロ超級金メダルリストでもあり、2000年シドニー五輪柔道100キロ超級金メダリストのダビド・ドゥイエだった。

「悔しいけど、負け越しちゃったからな、ドゥイエには。後にテディ・リネール(五輪三連覇)っていうもの凄い柔道家も出てきちゃったけど、リネールの前身を作ったのがドゥイエなのかな。彼とは(アトランタ)五輪の準決勝で彼に負けて、その前のバルセロナ五輪で俺が勝って、その前のフランス国際大会で俺が負けて、唯一負け越しちゃったのかな」

 ちなみに小川は生涯を通じて、ドゥイエ以外に負け越した柔道家はいなかったが、ドゥイエの印象を「クレバーっていうか、闘い方が上手い柔道家だったよね。強さもあり、うまさもあるみたいな」と語った。

 興味深いのは、それでも小川は「もしリネールが10年前にいたら俺だって分からないよ、くらいの柔道家なのかな。若い時にやってみたい柔道家なのかな、リネールはね。だって2メートルいくつなんて想像を超えるもんね」と話したこと。小川にとってはそれだけ「リネールがダントツだと思うよ」との認識があるらしい。そう聞いてしまうと、もし世代が同じであれば、小川vsリネールとの対戦は見てみたいと本気で思った。

小川が柔道界を託せると任せた篠原信一

「ドゥイエは(フランス国内で)国民的スターになれているし、シラク大統領の隣にいられるポジションでもある」と話すと、今やフランスが日本以上の柔道王国になっていることに触れ、「日本が学ばなきゃ行けないことはいっぱいある」「そういう柔道王国に生まれた第一人者がドゥイエなのかな」と結んだ。

 そして、最後に小川が挙げたのは、2000年シドニー五輪柔道100キロ超級銀メダリストの篠原信一だった。

「スパッと辞めちゃってさ。全日本の監督(2008?2012年)までやったのに、いきなり辞めるって。タレントになったと思ったらさ、今もタレントか。プラス、ブルーベリー(農園しのふぁ~む)だっけ。大したもんだよ」

 また、小川は篠原のことを「この男は一番、人間味があってよかったな」と話したが、小川の言葉は、篠原を特別視していることを感じさせるには十分すぎる物言いだった。

「彼が(出て)来たから安心じゃないけど、柔道(全体)のことはあんまり気にしないで。(篠原に)実力もついてきたし。自分のなかで柔道を引っ張ってきた(意識が)あったから。途中で辞めたくても誰か次になり手がいねえじゃんっていうところだったのね。一人王者でぶっちぎりだったのよ」

 実際、小川は全日本選手権大会を計7回も制覇し、現在も国民栄誉賞を獲得した山下泰裕氏に次ぐ2番目の実績を誇る。

「そこに彼がやっと出てきて、精神的にも強いヤツだな、こいつは、と思ったし」「なれなれしいところもあったから。人間性もあったから、彼だったら大丈夫だろうと思って」

 そう言って小川は、自身がプロの世界に進めた理由のひとつに、小川が柔道界で担ってきた役割を引き継げるだけのものが篠原に感じたと証言した。

 さらに小川は「よく(篠原から)先輩ズルいッスよ」と言われたらしいが、小川はその際に「お前もズルいだろ」とやりとりしたことを明かした。それは、お互いに柔道界での役割を終え、別の世界に転身した実績を持つ者同士による特別な会話だったに違いない。

「彼とは話くらいはしたいと思うよね。どんな心境でブルーベリーをやっているのかなとかさ」「評判いいらしいよ」

 小川はそう話すと、篠原が長野県安曇野市で運営する「しのふぁ~む」に訪問して再会を果たしたいと話した。もし本当に両者の再会が実現するとしたら、その際には両者の持つ、現在の柔道界への熱い想いが爆発する会話が繰り広げられるに違いない。

(一部敬称略)

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