浅香唯独白 芸能活動の休止理由…心身ボロボロだった窮地を救った母親のひと言
ライザップのCMで“コミット”した歌手の浅香唯が芸能活動35周年を迎えた。ドラマ「スケバン刑事III」の3代目麻宮サキ役をはじめ、「C-Girl」「セシル」などのヒット曲を連発し、80年代に “日本一忙しいアイドル”と呼ばれた彼女だったが、90年代に芸能活動を休止し、引退まで考えた時期があった。そんな彼女を支えたのは母親のひと言だった。
「親子の縁を切ってでも」両親の大反対を押し切ってデビュー
ライザップのCMで“コミット”した歌手の浅香唯が芸能活動35周年を迎えた。ドラマ「スケバン刑事III」の3代目麻宮サキ役をはじめ、「C-Girl」「セシル」などのヒット曲を連発し、80年代に “日本一忙しいアイドル”と呼ばれた彼女だったが、90年代に芸能活動を休止し、引退まで考えた時期があった。そんな彼女を支えたのは母親のひと言だった。(インタビュー・文=福嶋剛)
――35周年おめでとうございます。9月23日にリリースした記念ボックス「YUI ASAKA 35th Anniversary」は、アイドルとしての浅香唯の人物像をさまざまな角度から捉えた「お宝」満載でファンだけでなく、最近ライザップのCMで知った人も楽しめるスペシャルな作品に仕上がっていますね。
「ありがとうございます。35年は、あっという間でしたね。でも1個1個を振り返ってみると、すごく長い歴史があったんだなって作品を見てそう感じました。今回ブックレットに当時のディレクターさんとの対談が収録されていて、忘れかけていた当時の思い出がたくさんよみがえりましたね」
――思い出話つながりで、唯さんには今回「母親と娘」というテーマでお聞きしていこうと思います。子どもの頃のお母様との思い出は?
「私の両親はずっと共働きだったので、小さい頃からいつも1人で寂しかったという思い出がありますね。でも母が帰ってくると私の話を疲れた顔1つ見せずにいつも全部聞いてくれました。私は獣医さんになりたいという夢があって、親もその夢をかなえてあげようといろんなことを経験させてくれて。決して教育ママではなく、自由にやらせてもらいました。進学校にも通わせてもらい」
――あの「半沢直樹」の堺雅人さんも後輩として通われていたという宮崎県でもトップクラスの進学校に通われていたんですよね。
「私は間違って入っちゃいましたけど(笑)。きっとアイドルになってなかったら獣医さんを目指していたでしょうね」
――そんな唯さんが、中学3年生の時にオーディションを受けたんですよね。
「当時は芸能界とか全く興味がなくて、ただ賞品の赤いステレオが欲しかったのと、九州から出たことがなかったので中学最後の思い出作りに、『夏休みに飛行機に乗れるぞ』『東京に行けるぞ』ってそんな軽い動機で受けました。それで『浅香唯賞』をいただいたんですが、デビューするかしないかは、本人次第という条件だったので『私はデビューする気はありません』って断ってステレオだけいただいて宮崎に帰っちゃったんです(笑)」
――獣医を目指そうと?
「そうなんです。それから事務所やレコード会社の方から何度も連絡をいただいては、お断りしていたのですが、宮崎まで来てくださって熱心にお話をしていただくうちに、私もその気になって、『人生1回ぐらい冒険してもいいかな。ダメだったらまた戻ってやり直せばいいや』って気持ちが固まって。そしたら親はもう大反対で」
――どうやってお母様を説得されたのですか?
「説得はできませんでした。中学校の卒業式が終わった夕方の便で上京することが決まり、そこで『親子の縁を切ってでも私は行くから!』って両親に言ったんです。それが当時の最後の言葉でしたね。そんな雰囲気だったので卒業式の朝、母親は見送ってくれなくて、すごくブルーな卒業式でした。その日は友達が見送ってくれて、そのまま飛行機で東京に向かいました。でもね、着いてすぐにホームシックになっちゃったんです(笑)」
――そうだったんですね。それでお母様に電話したんですか?
「電話したら負けっていう変な意地を張っていたんでしょうね。母親の声を聞いたらきっと帰りたくなるから何か月もずっと電話もせずに我慢しました。今考えるとまだ15歳の子どもでしたからね。簡単に負けそうになるんですよ。帰りたい、帰りたいって思っていましたから」
――娘のことを1番よくわかっているからこそ、お母様もわざと突き放して我慢されたんでしょうね。
「そうだったのかもしれないですね。1番私の性格をわかっているのが母親だったのでどんなに反対しても1度決めたら絶対にそうするだろうと思っていたみたいです」