【追悼】海老名香葉子さん 戦争孤児、初代三平の未亡人…「稼がなきゃ」で林家一門を支えた奮闘人生
落語家の初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さんが、クリスマスイブの今月24日午後8時38分に老衰のため亡くなった。92歳だった。初代三平さん亡き後、林家一門の要として大所帯をまとめ、2人の息子を落語家に育て上げた。演劇評論家の渡邉寧久氏が、追悼を込めてその「あっぱれすぎる人生!」を解説した。

演劇評論家・渡邉寧久氏が解説
落語家の初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さんが、クリスマスイブの今月24日午後8時38分に老衰のため亡くなった。92歳だった。初代三平さん亡き後、林家一門の要として大所帯をまとめ、2人の息子を落語家に育て上げた。演劇評論家の渡邉寧久氏が、追悼を込めてその「あっぱれすぎる人生!」を解説した。
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おかみさんが堂守を務めていたねぎし三平堂は、「リハビリ中」を公式コメントにしていたが、具合が良くないのは察していた。今夏の前、長男の林家正蔵(63)と言葉を交わした際には、「うちのかみさん(正蔵夫人=有希子さん)はすごい。おふくろを自宅で看取るって言うんだから」と妻への感謝を口にした。
その時、「おかみさんの人生は晩年を迎えているのだな」と受け止めた。
最後に長い時間のインタビューをしたのは2024年2月だった。質問がひと段落した後、「100歳まではいけるでしょう」と水を向けると、「いけるかしら!」と、いつもように屈託のない笑顔を見せてくれた。
私が新聞社勤務だった20代の頃、原稿を受け取りにうかがったのが、出会いだった。以降、約束は「11時半ごろに来てね」。その時間帯に行くと、「お昼でも食べていきなさいよ」と歓待してもらえた。そうめんか冷や麦がいつものもてなしで、おかずと一緒にいただいた。おかみさんも若かったが、既に若女将(正蔵夫人)が台所の支配者見習いとしてテキパキと差配していた。
戦争孤児。1945年3月9日から10日にかけての「東京大空襲」で、両親、祖母、きょうだい3人、一晩で身内6人を亡くした時、おかみさんは国民学校の5年生で10歳。この年齢で、生活のよりどころを爆弾で吹き飛ばされたのだ。
「自分のような子どもが2度と生まれないように」の思いから、戦争体験を本にまとめ、全国各地で講演。東京・上野公園内に私財を投げ打って「時忘れじの塔」をこしらえた。そして、毎年3月9日には「時忘れじの集い」を開催し、「戦争が大人にも子どもにも何もいいことをもたらさない」ことを静かに訴え続けた。
初代三平が54歳で他界した時、おかみさんは46歳だった。正蔵は林家こぶ平として落語家の道を歩み始めていたが、二男の二代目林家三平はまだ小学生。おかみさんは当時のことを「稼がないといけなかったのよ」と振り返った。原稿を書き、全国各地を講演して回り、夫が残した一門を一番弟子だった林家こん平(20年12月17日没)と一緒に支えた。家を建て替え、自宅に併設する形で初代三平の遺品を展示する「ねぎし三平堂」をこしらえ、夫の偉業を令和の今に伝える道筋を描いた。
「段ボールに入れていた遺品を全部捨てようとしたら、この子(現三平)が『お願いだから捨てないでくれ』って泣いて。おかげで夫の足跡を展示することができたの」
そう明かし、幼かった次男の機転に感謝した。
正蔵も三平も落語家として順調に成長し、林家一門を引き継ぐ名跡にふさわしい貫禄を蓄えつつある。落語家の歴史で、意外に思われるかもしれないが、「親子三代」は初めてのこと(七代目林家正蔵→初代林家三平→九代目林家正蔵・二代目林家三平)。正蔵の子ども(林家たま平、林家ぽん平)も落語家になっているため、海老名家は「親子四代落語家」という稀な記録を打ち立て続けている。
その一族をまん真ん中で支えたのがおかみさん、あなたです。
おかみさんが一門に残した貢献、落語界に残した足跡は永遠。演芸史に深く刻まれる立派な奮闘でした。今はただ、安らかにお休みください。感謝を込めて、合掌。
□渡邉寧久(わたなべ・ねいきゅう)1962年4月13日、栃木・宇都宮市生まれ。新聞社文化部記者、テレビ局エンタメウェブサイトの記者、デスクなどを経て、現職。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞、花形演芸大賞の選考委員などを歴任。台東区主催の「江戸まちたいとう芸楽祭」(名誉顧問ビートたけし)では実行委員長。執筆・監修本は『落語入門』(成美堂出版)、『十八番の噺一落語家が愛でる噺の話』(フィルムアート社)など。来年1月16日には、新著『落語家になるには』(ぺりかん社)が出版される。
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