「女の子は好きですか?」たった一言で即採用、金髪ホストに転身も…借金2000万円、どん底からの再起
「お前、胃に穴が開くほど悩んでいるのか」。2000万円の借金を抱え、十二指腸潰瘍で倒れた新入社員に、社長はそう声をかけた。元ホスト、会社経営の失敗、そして自己破産――。30歳でどん底を経験した男が、なぜ再び立ち上がることができたのか。現在は株式会社三恒(さんつね)でEC部門を統括する鎮田翔太さんの波瀾万丈の人生に迫った。

「まさか自分がホストやるとは…」 急展開の就職活動
「お前、胃に穴が開くほど悩んでいるのか」。2000万円の借金を抱え、十二指腸潰瘍で倒れた新入社員に、社長はそう声をかけた。元ホスト、会社経営の失敗、そして自己破産――。30歳でどん底を経験した男が、なぜ再び立ち上がることができたのか。現在は株式会社三恒(さんつね)でEC部門を統括する鎮田翔太さんの波瀾万丈の人生に迫った。
高校卒業後、先輩の紹介で大阪の和菓子屋に就職した鎮田さん。東京に支店があることを知り、転勤を希望した。念願かなって東京での生活をスタートさせ、3年半を過ごした時だった。
「最初めちゃくちゃ楽しかったんですけど、慣れてくるじゃないですか。地元の大阪の友達にもずっと会えてないし、よく風邪引くようになったんですよ。もともと風邪とか全然引かない体質だったんですけど、水が合わないからかなと。大阪帰りたいなと思って辞めました」
地元に戻り、知人の紹介で「バー」の仕事に応募した。しかし、そこはホストクラブだった。
「バーと聞いた時に、バーテンダーの印象があっていいなと思いました。まさか自分がホストやるとは思ってなかったですけど、いい経験かなって」
面接での質問はたった一つだった。
「女の子は好きですか?」
鎮田さんは「好きです」と答え、即採用。翌日から出勤することになった。
和菓子時代はデパ地下で前がけ、三角巾姿だった。ホストの世界ではスーツが制服だ。しかも少しキラキラしたダークスーツ。髪色も一変した。
「もう1週間もしないうちに染めました。金色に。僕の勝手なホスト像でした。今までできなかったっていうのがあって、やりたかった」
髪は長く分けて、襟足も伸ばした。「ほんまに昭和のホストみたいな感じ」。働く場所はミナミの心斎橋。繁華街の中心だが、店は小規模で、在籍していたホストは7、8人ほどだった。
勤務時間は午後9時ごろから明朝の7時ごろまで。最後の客が帰るまで営業を続ける日々だった。
「めちゃ大変でしたね。キラキラ華やかな、とかではなかったです。毎日お酒もいっぱい飲まないといけないですし、お客さんを楽しませてあげないとダメじゃないですか。細かいところに気づいてあげて、先に手を上げる。そういう気遣いが思った以上でした」
トイレに行ったらおしぼりを渡す。最初に頼む飲み物で体調を察する。客の様子を一つひとつ見て、気を配る。そうした所作が求められた。
前職時代とは客層もまるで違った。キャバクラか風俗、金持ちの女性が主だった。慣れない仕事に失敗もした。自分の誕生日を祝ってくれた女性客たちに、お返しができなかった。その結果、何人かの客が離れていった。
鎮田さんは営業力を高めるため、外でのキャッチに力を入れた。道頓堀や商店街、“ひっかけ橋”の異名を持つ戎橋など、ミナミ一帯を歩き回った。
「今はダメですけど、多い日で7、80人ぐらい声かけてました。チャラチャラしたような服装やから、逆にすごく真摯(しんし)にしゃべりかけたらいいとか、いろんなことを試してやりました」

食品卸の会社と居酒屋にも手を出して…自転車操業の毎日
休みは日曜日と祝日のみ。酒量は、酒好きな鎮田さんでも「最初はちょっときつかった」というほど体にこたえた。
給与体系は完全歩合制に近く、基本給はほとんどなかった。「少なかったら月に20万、多くて70万とか。あとはその間ちょろちょろしてるような感じで」。もらうものもあったが、出ていくものも多かった。
「もらうのは物とかでもらったりするんですけど、出ていくのはお金が出ていく。だから、余裕があるような感じではなかったですね」
店が終わった後にアフターもあった。さらに売掛金のトラブルも経験した。常連客の誕生日でシャンパンを開け、会計が50万円になった。「今持ってないから次払う」と言われ、信じて待ったが、その客は消えた。結局、店と折半して自分も被ることになった。
約3年弱、ホストとして働いた。辞める時には「新しくホストクラブを作るから、そこ任せたい」と声をかけられるほどには信頼を得ていた。
「夜の世界でホストとしてやっていけるのって、年齢が限られてるじゃないですか。経営者側の立場になると、また年齢が上がっても大丈夫かなとは思うんですけど、夜の世界にずっと身を置くことに、すごく不安になって、もう普通に働いたほうがいいなって思いました」
ホストを辞めて無職になった鎮田さんに、転機が訪れる。5歳の時に入院した際、隣のベッドにいた大学生が、水産加工会社の社長になっていた。その会社には弟も働いていた。
「なんか仕事ないかなって聞いたら、とりあえずうち来いよって」
大阪市中央卸売市場の仲卸で、ちりめんじゃこや釜揚げシラスを扱う会社だった。髪を真っ黒に染め、短く切った。最初はアルバイトで荷物を運ぶ仕事から始めた。
約1年後、社長から別会社を立ち上げる話を持ちかけられた。
食品卸の会社で、仲卸や卸業者間での売買が専門だった。代表の鎮田さんと社員1人、事務員1人の計3人。最初は順調だったが、次第に苦しくなっていった。
「なかなか厳しい時期にあって、自分で会社をやってるっていうのが、すごく難しくて。結構苦しいなって」
活路を求めて、大阪市内で居酒屋も始めた。居抜き店舗を借り、従業員を雇った。しかし、卸の会社の売り上げは上がらず、お金が回らなくなっていった。
「自転車操業みたいなことになりつつ、またお金を借りてとかっていうやりくりをし出したら、管理が全然できなくなりました」

雪だるま式に増えた借金…返済にメド立たず病に倒れる
親会社からの支援もなかった。途中から完全別会社という扱いになっていた。
借金は膨れ上がり、2000万円弱に達した。卸の会社は廃業。居酒屋だけで返済を続けていると、取引先だった株式会社三恒から声をかけられた。鎮田さんは同じ野球チームで汗を流す関係だった。居酒屋が終わった深夜から、午前6時まで市場でアルバイトとして働くことになった。
減らない借金に、ストレスをため込んだ鎮田さんの体は限界だった。十二指腸潰瘍で倒れ、手術を受けた。
お見舞いに来た三恒の社長は言った。
「お前、胃に穴が開くほど悩んでいるのか」
そして、一つの提案をした。
「これは一つの案やけど、自己破産するっていうのも一つの方法としてはあるぞ」
鎮田さんは考えたこともなかった。自分が作った借金は自分で返すべきだと思っていた。しかし、何か月か悩んだ末、決断した。
「新たなスタートを切るっていうのも一つやなって」
30歳での自己破産。もとの親会社の水産加工会社にも何百万円の負債があり、それも消えた。多くの人に迷惑をかけた。
「たくさんの人にすごい迷惑をかけたっていうのが、自分の中でずっとあって。その分、自分は誰かに何か幸せを届けてあげなあかんなって。誰かを幸せに、誰かを笑顔にっていうのが今すごく思ってます」
自己破産すると、少なくとも数年はクレジットカードが作れず、ローンも組めない。保証会社の審査が難しくなるため、家を借りること自体ハードルは高くなる。
自己破産が成立した頃、当時の彼女、現在の妻にプロポーズした。
「自己破産してる身やったけど、一緒になってくれるかなって」
答えは「いいよ」だった。
「もう、感謝ですね。ほんまに」
妻の支えを得て、文字通りどん底からの出直しが始まった。鎮田さんは、三恒で梅田の阪急百貨店に出店したみそ漬け専門店の店長を任されていた。売り上げが低迷していた店舗を立て直す使命だった。
「なんとかしてくれと言われて」
鎮田さんは行動を起こした。ここでホスト時代の経験が生きることになる。
「来るお客さんの8割ぐらい女性なんですよ。女性のほうがしゃべりやすかったので、声はかけやすかった。店の前を通るお客さんに、昔のキャッチじゃないですけども、声かけて声かけてっていうのをやりました」
目が合ったら笑顔で話しかける。何十人もの顔を覚えて、次に来た時に「この間ありがとうございました」とお礼を伝える。ディスプレーも商品を女性が見やすいように並べ替えた。静かだった売り場に市場のような活気が生まれた。その結果、売り上げは5年間、一度も前年を割ることなく、右肩上がりで上昇した。

「今まで迷惑をかけた分…」 新たなやりがいと将来の夢
現在、鎮田さんはEC事業部の部長として、オンラインショップの店長を務める。約400種類の商品を扱い、SNSや動画での発信にも力を入れている。
「自分の子どもと一緒に動画を撮ったり、オンラインですけど、人が見えるような形を作っています」
伝えたいのは、魚の素晴らしさだ。
「今、家で食べる食事って、お肉が週の半分を超えるんですね。その中でも、魚が週に1回でも2回でも増えてくれたらうれしいなって。いろんな食べ方があって、いろんな種類があって、そういうのをちょっとでも伝えれたらいいな」
三恒の理念は「いただきますの心を大切に」「全ての人々の食卓に笑顔と感動を創造する」だ。
「今まで迷惑をかけた分、ほんまに全ての人に食を通じて、笑顔と感動というか、そういうのを届けれたらいいなって。それはすごく強く思うようになりました」
2年前にマンションを購入した。クレジットカードも作れるようになった。
今後の目標を聞くと、鎮田さんはこう答えた。
「SNSとかいろんな発信ができて、日本中とか世界とつながれる。日本の魚だったり、自社で作ってるみそ漬けやったり、魚のおいしさ、素晴らしさっていうのを、いろんな人に知ってもらいたい。家族で食卓を囲んで、おいしいなって、みんなが笑顔になれるような環境を世界中、日本中で作る。そんな手伝いが自分にできたらいいなと思っています」
金髪のホストから、借金地獄を経て、魚の魅力を伝える“広報”へ。激動の人生を送ってきた鎮田さんは、誰かの笑顔のために、今日も働き続けている。
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