【プロレスこの一年 ♯13】猪木がハンセンに逆ラリアット “掟破り”はここからはじまった!? 1980年のプロレス
新日本は谷津の入団を発表 全日本は鶴田が「チャンピオンカーニバル」初優勝
この年には猪木がボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にも挑戦した。8・22品川ではハンセンとラリー・シャープの乱入からリングアウト勝ちを宣告されるもルールによりバックランドの防衛となった。バックランドはハンセンとの一戦にもWWFのベルトを懸け、9・30日本武道館で防衛。5日前、ハンセンに逆ラリアットを繰り出した猪木はこの日、ケン・パテラを相手にNWF王座を守ってみせた。さらに猪木は、11・3蔵前でホーガンを迎え撃ち、NWF王座を防衛。初来日から間もないホーガンだが早くからチャンスが与えられ、年末の「第1回MSGタッグリーグ戦」にはハンセンとのコンビでエントリーされた。しかもこのチームで決勝に進出。最後は猪木&バックランド組に敗れ準優勝に終わるも、ハンセンとのチームは近い将来ホーガンがハンセンを継ぐ外国人エースとなるための助走でもあったのだ。
新日本は10月に大物新人の入団を発表した。アマレス王者の谷津嘉章だ。谷津はオリンピック日本代表となるも、ソ連のアフガニスタン侵攻によるアメリカのボイコットに追随する形で日本の出場が消滅、プロへの転向を決意した。デビュー戦は12月29日、新日本のニューヨーク遠征。MSGにてカルロス・ホセ・エストラーダを相手にデビュー戦を行い、ワンダースープレックスで初陣を飾っている。これに先立つ12月13日には、新間寿営業本部長が東京体育館のリング上で「世界統一構想」を発表。これがのちのIWGP(インターナショナルレスリンググランプリ)につながっていくのだ。
猪木はこの年、“世界”の名称を消さざるを得なかったNWFヘビー級王座を中心に、WWFヘビー級王座、UWA世界ヘビー級王座のベルトに絡んだ。NWAに加入できなかった猪木の世界統一という野望の傍らで、ライバルの全日本・ジャイアント馬場は74年12月2日、79年10月31日に続く自身3度目となるNWA世界ヘビー級王座奪取に成功した。9月4日、佐賀にてハーリー・レイスに挑戦し勝利したのだ。しかし、今回もまた1週間天下に終わってしまう。9・10大津でレイスが馬場から奪回したのである。そのレイスは12日の一宮でミル・マスカラスと防衛戦。両者リングアウトの引き分けで、最高峰のベルトをアメリカに持ち帰った。
新日本にタッグリーグをぶつけられた全日本「世界最強タッグ決定リーグ戦」では馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビが最終戦でテリー&ドリーのザ・ファンクスと引き分け。しかし得点差によって馬場&鶴田組の優勝が決定した。鶴田はこの年の「チャンピオンカーニバル」でディック・スレーターを破り7度目の出場にして初優勝(5・1福岡)。また、テリー・ファンクは10月に「3年後の引退」を発表していた。実際はアナウンス通りの「6月30日、39歳の誕生日」ではなかったものの、公約通り83年の8・31蔵前でリングを去った。しかし…。
80年は猪木VSウィリーの格闘技戦が大荒れになったものの、総体的にはトップ争いのタイトルマッチがマット界の中心になった1年だった。新日本のジュニアでは藤波がNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座、WWFジュニアヘビー級王座を獲得し活躍。国際ではラッシャー木村がIWA世界ヘビー級王座を年間通して保持。また、国際には2月に大木金太郎が入団し3月から試合を行うも、11月の負傷欠場から退団。翌81年、国際は14年間の活動に幕を下ろす。また、全日本5・2後楽園でアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークが一騎打ち。巻き込まれた実況の日本テレビ倉持隆夫アナウンサーが頭部に裂傷を負い救急車で病院に運ばれたのもこの年の出来事だった。プロレス、とくにヒールレスラーの試合は怖いとの印象をチビッコをはじめ、お茶の間のファンに見せつけたのだ。
(文中敬称略)