5000万円かけて出店も…レスラーが見た“生き地獄” 開店2か月で休業、去った職人 払い続けた家賃と給料
現在、千葉・我孫子市議会議員を務める澤田敦士は、2007年にデビューしたプロレスラーだ。そんな澤田が、両国駅から徒歩1分の場所にハンバーグ店を出店したが、それは同時に苦悩のスタートだった。今回は地方議員、プロレスラー、飲食店経営という三刀流の男の紆余曲折に迫る。

地方議員、プロレスラー、飲食店経営という三刀流
現在、千葉・我孫子市議会議員を務める澤田敦士は、2007年にデビューしたプロレスラーだ。そんな澤田が、両国駅から徒歩1分の場所にハンバーグ店を出店したが、それは同時に苦悩のスタートだった。今回は地方議員、プロレスラー、飲食店経営という三刀流の男の紆余曲折に迫る。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
澤田がプロレスラーとしてでデビューしたのは、アントニオ猪木が主宰していたIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)のリングだった。元々は世田谷学園から明治大の柔道部という柔道家としてはエリートコースを歩み、高校時代は日本一、大学時代は全日本ジュニア柔道体重別選手権大会100キロ級で優勝したこともある。
ところが澤田は現在、プロレスラーとしてはほぼ開店休業中。理由は我孫子市議会議員としての公務があるのかと思っていたら、今度は飲食にまで手を出していた。そもそも飲食関係には興味があったのか。
「まったくないです。ホントにないです。ただ、一つ言えるのは、プロレスも政治も飲食も、皆さんの笑顔が見たい。それだけです」
そう言ってはぐらかしながら、澤田は「すべてが本業」と口にする。しかし、よくよく話を聞いていくと、この流れになったのには理由があった。
「厳密に言うと、この店は昨年12月にオープンしたんですよ。だからもうすぐ丸1年になります。ただ、12月と1月の2か月営業をしたけども、1月末にいろいろあって職人が辞めてしまった。だから2月と3月は店を休んで、今後どうするんだとなった。両国駅から徒歩1分だけに家賃はバカにならない。その前に内装費も5000万円近くかかってしまっていて……」
結局、2か月だけ閉めて、4月から店を再開することになるものの、その間も澤田は頭を抱えていた。
「店を閉める前の段階でスタッフのシフトも決めちゃったんですよ。だから閉めている間も給料は払っていました。たぶんその段階だと自分の頭の中には、誰かまた任せられる人を見つけて、店を再開させようって考えがあったんでしょうね。もしかしたら店を閉めている間は給料を払わない経営者もいると思うけど、バイトの子たちも生活がかかっていますから」

脳裏によぎったA猪木の言葉
この時の澤田には、猪木が口にしていた「一寸先はハプニング」の言葉が脳裏をよぎった。
当初は出資だけして他人に任せるつもりでいた。いったん店は閉めたものの、それでもなかなか適任者が見つからない。しかし、このまま店を再開せずに家賃やスタッフの給料を払い続けるのは限界がある。
「大袈裟な話、いつまでも“生き地獄”のような精神状況に陥っている場合じゃない」
そこで澤田は覚悟を決めた。「僕がやるしかいないな」「だけどどうするんだよ、これ……?」。切羽詰まった澤田を後押ししたのは、やはり猪木の言葉だった。
「猪木会長から『迷わず行けよ。行けば分かるさ』って言われた気がしましたね。これは冗談でもなんでもなく、本当にそう思ってました」
そして澤田は4月から、市議会議員の公務がない日は朝5時に店に入り、肉をこねる日々をスタートさせた。
「ただ、右も左も分からない。大変な世界に足を踏み入れてしまいましたよ。朝5時から店に入って、肉を自分の手でこねて。営業が開始したら肉を焼いて、お客さんに食べてもらうにしても、まともに料理なんてやったことがない。しかもそのお客さんをどう呼び込むか。38席をどうやって埋めればいいのか……。まさにマイナスからのスタートでしたね」
なんとか澤田がやる気を起こしても、周囲にそれはなかなか伝わらず、空回りしていることもあったという。
「まさかこの世界に来るとは……って思ってましたから。だからスタッフから『何をやればいいんですか?』と聞かれた時も、『自分で考えろ』ですからね。従業員にも迷惑をかけたし、お客さんにも迷惑をかけたかもしれない。今でこそ、普段はプラカードを持ってプラプラ歩いてますし、いろんな方に自分から声をかけてますけど、その時は地元の支援者の方にも言ってないし、誰にも言ってなかったんですよ。だっていざ始めてはみたものの、いったいどうなるか分からなかったから」
その頃、澤田が思ったことがある。
「たしかに料理なんてやったことはない。接客だって集客だってそう。果たして自分にできるのか。いや、できるかできないか、じゃないんですよね。やる! 四の五の言う前にやるんです」

岩谷麻優の勇姿に自身のプロレスラー心が踊る
すでに再開から半年がたった。今では「いろんな方から声がかかりますよ」と澤田は話す。
「なにせ場所が両国ですから、国技館にプロレスを見に来たプロレスファンから『なんで澤田さんがいるの?』って言われますね。ありがたいことですね。最近は10月26日にマリーゴールドの大会があったから、その前に林下詩美選手、桜井麻衣選手が来てくれたり。他にはSareee選手や里村明衣子選手にも来ていただきました。他にも懐かしい顔の関係者が顔を出してくれたり、大相撲の力士の方が来てくれたりもしていますね」
知っての通り、両国には国技館がある。当然ながら、澤田の店の客入りもこの会場の稼働と密接に関わってくる。
「国技館は週末の土日と大相撲の本場所(1月、5月、9月)を含めると、130日くらいですかね。ただ、今年は6月~8月が3年に一度の改修工事に入ってしまって、この時はキツかったですね」
この半年間で考えると、一番忙しかったのはいつになるのか。
「直近だとWWEの(日本公演/10月17、18日)時ですね。あの時はすごかった。文字通り、満員御礼が続いてましたよ。それとウチの店の客入りとは関係ないけど、マリーゴールドであったイヨ・スカイ選手対岩谷麻優選手ですか。最高でしたね、あれは。僕は思わず麻優コールしてましたもん。まーゆ! まーゆ! まーゆ!」
澤田の口から、まさかの岩谷が出るとは驚きだったが、「岩谷選手、頑張っている姿はついつい応援したくなっちゃいますね」と澤田は目を輝かせた。おそらく自身のプロレスラー心を触発したのだろう。というのもプロレスラーとして考えた場合、澤田と国技館の相性は決して悪くはないからだ。
「プロレス初勝利は元関脇の若翔洋(馬場口洋一)から国技館で取りましたけど、しょっぱい初勝利でした。国技館の思い出といえば、猪木会長が試合後に激怒した潮崎豪戦、負けて思わず『引退』を口にしてしまった星風戦(MMA)、師匠・小川直也さんとの試合もありましたし、ミノワマン選手ともやりましたね」
澤田が活躍したIGFに関しては、ファンの間でいまだに賛否の声が話題になる。それだけ物議を醸した団体だったが、澤田にとっても激闘の記憶が残る国技館のすぐ横に店を出しながら汗を流すというのも、澤田のこれまでの道なりを知っている者からすれば、なかなか興味深い話ではある。
「12月は6日と7日にロボット甲子園(全日本ロボット相撲大会2025決勝大会)、29日はスターダムがありますよ。来年1月は大相撲の新春場所があって、3月に改修工事を終える大江戸博物館が再開すると、今までの3、4倍は人が来るんじゃないかっていわれていますね」

改めて知った、チームワークの大切さ
思わず「さすがに今後の展望は明るいですね」と伝えると、「僕はコンピューター付きブルドーザーですから」と、かつて田中角栄首相についた呼称を口にしながら冗談めかした。
ちなみに場所柄、外国人の割合はどの程度なのかと聞くと、「この間、データを見たら3割くらいかな。そこそこ多いですね。浅草が近いからそこから流れてきたり。この店舗の前に土俵が設置されてますから、それを見に来る方もいます」とのこと。今の調子だと、出資した大金を回収するには時間がかかりそうだが、大変な分、澤田にとっては新たな生きがいが生まれたともいえる。
「なんでもそうかもしれないけど、この店に関してはチームワークの大切さを痛感していますよ。一人ではできることも限られるけど、周りとうまく協調できれば、大きな力が生まれる。誰かが休めばそこを誰が埋めるかも考えなくちゃいけないし、そういう悩みは尽きません。そこは今後も苦労するでしょうけどね」
まがりなりにも中学・高校・大学と柔道部のキャプテンをやってきた経験は伊達ではなかった、ということなのだろう。
「僕は今までずーっと行き当たりばったりの人生でしたけど、まさに今、その厳しさを痛感しています。プロレスラー、政治家、商売と、いろいろやってきましたけど、人生は計画を練ってやっていかないといけないですよね。ただ、それでもありがたいなって感謝の気持ちを忘れずに、この店ではおいしいものを食べて笑顔になっていただきたい。今の目標は『元気があればなんでもできる』」
澤田は自身を奮い立たせるように、猪木の言葉を口にした。
最後に「もし猪木さんがご存命だったとして、店に来ることがあったら何と言うか?」と澤田に問うと、「来ないんじゃないですか? 『俺、知らねーよ』って言われるかもしれない」と答えた。そうは言いながら、猪木が来店した際の場面を想像すると、一番人気の両国ハンバーグ(税別1200円)を口にしながら、「ステーキじゃねえからすてきじゃねえな」くらいのダジャレは飛び出しそうな気はした。
(一部敬称略)
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