ごみ屋敷育ちから奇跡のデビュー ホストに全財産だまされ…実家の遺品整理で衝撃真実 43歳の壮絶人生
ごみ屋敷のような家で育ち、高校時代のいじめで不登校。華やかなレースクイーンとして活躍を見せるも、全財産をホストにだまし取られ、コロナ禍で収入ゼロ、40歳を過ぎての就活で50社以上に落選……。何度もどん底を経験しながらも、立ち上がってきた女性がいる。企業広報として働く小田陽子さんだ。レースクイーンは引退したものの、43歳ながら現役のイベントコンパニオン・MCという異色の経歴を持つ。「物事は必ず上向く」。不撓不屈の精神で歩んできた壮絶半生に迫った。

「母は『あんたはアホやな』が口癖で…」 高校時代はいじめ不登校も経験
ごみ屋敷のような家で育ち、高校時代のいじめで不登校。華やかなレースクイーンとして活躍を見せるも、全財産をホストにだまし取られ、コロナ禍で収入ゼロ、40歳を過ぎての就活で50社以上に落選……。何度もどん底を経験しながらも、立ち上がってきた女性がいる。企業広報として働く小田陽子さんだ。レースクイーンは引退したものの、43歳ながら現役のイベントコンパニオン・MCという異色の経歴を持つ。「物事は必ず上向く」。不撓不屈の精神で歩んできた壮絶半生に迫った。(取材・文=吉原知也)
大阪で生まれ育った。大工だった父親は新興宗教に傾倒し、育児に無関心。母親は複数のネットワークビジネスにのめり込み、200万円以上の着物や宝石をいくつも購入。老後の資金まで使い果たした。さらに暴力も。「母は『あんたはアホやな』が口癖で、妹と私は毎日のようにたたかれ、蹴られました」。父は見て見ぬふりで寝てしまう。あざができるまではいかない程度だったため、周囲が気付くことはなかった。
母は片付けが苦手で、家の中は物が散乱。来客スペース以外は、ごみ屋敷に近い状態だった。賞味期限が10年過ぎた食品が出てきたり、押し入れから虫がわいたお菓子が見つかったり。「当時は自分の家がおかしいとは思わなかったです。どこの家庭もみんな親からたたかれていると思っていました。家が汚かった反動で、今は私も妹もすごくきれい好きになりました」と振り返る。
地域の高校に進学したが、1年生の時、いじめに遭い不登校に。摂食障害になり、体重が激減した。環境を変えるために通信制高校に転学。友人もできて19歳で無事に卒業できた。だが、折しも就職氷河期時代で、就職先はうまく見つからず。自力で仕事を探した職場は2年で退職。その後はフリーター生活を送っていた。
23歳の時、人生を変える“出会い”が。母親に連れられたトヨタ自動車のイベントで、イベントコンパニオンの姿に衝撃を受けた。「存在だけで場が華やかになり、笑顔の対応で周りの空気が柔らかくなる。その所作の美しさに感動して、自分もこの仕事がしたいと思いました」。大胆にも、その場で本人に「どうやったらなれるんですか?」と声をかけ、すぐにコンパニオン専門事務所に登録した。
わずか2か月後、三重・鈴鹿市で行われたオーディションに合格。交通費は自腹で、強い熱意を伝えた。「鈴鹿ツインサーキット 第1期レースクイーン」として2006年の年契約を獲得し、見事にデビューを果たした。
06年、人生のハイライトが訪れる。F1日本グランプリ。フィリップモリス社のマールボロブースでコンパニオンとして参加した。ミハエル・シューマッハとフェルナンド・アロンソの対決などに注目が集まった大舞台。1日12時間超えの過酷勤務を乗り越えた最終日、コンパニオン全員が一列に並ぶ「ラインナップ」で、約200人のカメラマンやF1ファンが集まった。「目が開けられないほどのフラッシュを浴びました。チームと一緒にレースを盛り上げられたという達成感。今までの人生の中で最高の瞬間でした」。
仕事は順調に増えていった。司会業を始めると共に、フィリップモリスのキャンペーンガールとして6年間従事。飲食店や販売店、自動車イベント会場でのたばこのプロモーション業務だ。チームに「目標」はあるがノルマはなく、マイペースな仲間も多かった。それでも、「ギャラをいただく以上は、見合った成果を出すべきと考えました」。心理学や人間行動学を独学で勉強。接客術やアプローチ方法に磨きをかけ、好成績を次々とたたき出す。全国1000人中、常に50位以内をキープ。「2人組で働いたある日、会員登録数で全国トップの数字を獲得したこともありました」。初代アンバサダーに選ばれ、現場指導のため全国を出張。研修会の講師にも選任され、関西のキャンペーンガール200人の指導役を担った。30代になり、さらなる案件を獲得しようと、14年から東京で活動を開始。東京モーターショーにも参加し、コンパニオンリーダーとして新人をとりまとめた。
しかし、プライベートで手痛い失敗も。25歳の時に、ホストにだまされ、貸したお金が返金されず、全財産の240万円を失うことに。32歳の時には、遠方にできた交際相手に婚約者がいたことが発覚して破局という憂き目にも遭った。

「挫折した時こそ冷静になることです」
そして、新型コロナウイルス禍で大打撃を受ける。2020年、軒並みイベントが中止に。1年先までの仕事がすべてキャンセルされ、収入は0になった。「引っ越し作業の日雇いで働きました。苦しかったです」。いったん地元の大阪に戻り、民間企業の受付の仕事に就いた。最終的には従業員からつきまとい行為をされて退職したが、一般企業で働く人たちを見て、「正社員として安定して働きたい」と強く思うようになった。「これからはITで手に職を」と、職業訓練校で半年間、プログラミングやWEBサイト制作、Androidアプリ開発を学んだ。「20代の子たちに追いつこうと、ノートを取りまくって必死に勉強しました」。
42歳の就活。ITスキルを学んだものの実務経験がなく、“年齢の壁”にも阻まれ、53社に落選。「厳しい現実を知りました」。困っていたところ、工業製品の試作品などを製造する「南デザイン株式会社」(東京・青梅)が広報部門を新設することを知人から聞き、選考に応募。採用が決まった。昨年に再び上京。これまで個人事業主として働いてきたが、会社員として新たなスタートを切った。広報として1年半で34媒体のメディア掲載を獲得。自身の提案で出場した「製造業対抗ミニ四駆大会」は会社の一大プロジェクトになった。青梅市や商工会議所との活動も増え、青梅の地域振興にも力を注いでいる。
副業も可能なため、今でも土日にイベントの仕事をこなす。長年活動している芸名「小田切あげは」として、大手企業の写真展のコンパニオンなどで人前に立つ。「私は仕事が好きなんです。広報の仕事は毎日新鮮ですし、イベントの仕事は気分転換にもなります。仕事が楽しいので、休みは要らないです」と声を弾ませる。
両親との関係は、区切りが付いた。両親は数年前、病気のため他界した。実家の遺品を整理していた時、押入れから見たこともない絵画や宝石がたくさん出てきた。「母がすごく浪費していたことに、最近になって気付きました。妹とも話しましたが、今さら恨みの感情はないです。今思うのは、両親は一生懸命ではあったけど、子育てが下手だったんだなって」。
何度も苦渋を味わいながら、這い上がってきた。その原動力はどこから来るのか。「もともとの性格がポジティブで、嫌なことがあっても寝たら忘れるタイプなんです」と笑う。
そして、「挫折した時こそ冷静になることです。客観的に見て、今の状況と理想の姿で何が足りないのかを、頭をフル回転して考えます。そこを埋める努力をしていけば、なんとかなるものです。上を向いて歩けば、物事は上向く。そう信じています」。笑顔で語る瞳には、力強さが宿っていた。
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