“死の山”K2登頂も「今は百姓」 希代の登山家が猟師を経て農家に行き着いた「自然な成り行き」
登山家としてK2登頂や冬の黒部横断などの実績を持ち、銃と最低限の装備のみで食料を現地調達する“サバイバル登山”を実践してきた服部文祥氏。近年は廃村にある古民家に移り住み、作物の自家栽培を始めとした自給自足の生活を続けている。刺激に満ちた冒険の日々から、なぜ畑と向き合うスローライフに行き着いたのか。「自分の中では一貫している」と語るその哲学に迫った。

銃と最低限の装備のみで食料を現地調達する“サバイバル登山”を実践
登山家としてK2登頂や冬の黒部横断などの実績を持ち、銃と最低限の装備のみで食料を現地調達する“サバイバル登山”を実践してきた服部文祥氏。近年は廃村にある古民家に移り住み、作物の自家栽培を始めとした自給自足の生活を続けている。刺激に満ちた冒険の日々から、なぜ畑と向き合うスローライフに行き着いたのか。「自分の中では一貫している」と語るその哲学に迫った。(取材・文=佐藤佑輔)
エベレストに次ぐ世界第2位の高峰で、“世界最難関の山”としても知られるK2(ヒマラヤ・カラコルム山脈主峰)。服部氏がその頂に立ったのは1996年、27歳のときのことだ。
「若いころは『一端の登山家になれないなら死んだ方がマシ』と思って、登りたいというよりも登らなければならないという思いで山に向かっていた。運よくK2の遠征隊に潜り込めて、K2サミッターとしての肩書きや仕事も増えたけど、あれは隊長が立てた計画にくっついて行っただけで、自分の登山ではなかった。それでも『死の山』と言われる場所に比較的楽に登れてしまって、ある種肩の荷が下りた部分はある。自分を無理に追い込んでいくことから解放されて、もっと自由にいろんな登山をしたいと思うようになったんです」
翌97年からは冬の黒部横断を敢行、黒部別山や剱岳東面、薬師岳東面の初登攀(とうはん)といった記録を打ち立てた。スキー、クライミング、沢登りなどいろいろなアウトドアを組み合わせる中で、特にフリークライミングの面白さに没頭。本当の意味で山に登るとはどういうことかを考えるきっかけになったという。
「岩を人間の都合のいいように加工せず、自然の形状をそのまま利用して、あるがままの姿の岩を自分の力で登るという思想ですよね。このフリークライミングの思想を山全体、フィールド全体に応用できないかと考えた。道具に頼らず、自分の力だけで登ることで、山と1対1で対峙ができる。それを突き詰めてみたいと思うようになった」
フィールドに持ち込むのは、ナイフ、タープ、鍋、生米などのごく限られた道具や食料のみで、燃料となる薪を現地調達し、山菜採りや釣り、狩猟を通じて食料を調達。30歳を目前に、独自のスタイルを貫くサバイバル登山をスタートさせた。
「若いときは前人未踏に憧れもあったけど、地球上にもう未踏峰はない。生まれてくるのが遅かったと悔んだこともありました。でも、サバイバル登山を始めてからそういう考えはどんどん少なくなっていった。今は逆に、昔の人が山を切り開いてくれたからこそ、そこに頼らないサバイバル登山という発想が自分の中に出てきたことを、よかったと思っている。日本中ほとんどすべての山に道がついてる時代だからこそ、それをどう自分なりに楽しむか。そのひとつの答えがサバイバル登山だった」

「魚を釣り、肉を捕った後に土いじりに行き着くのは自然な成り行きだった」
36歳のときには猟銃免許を取得。シカやクマなど、大型の獲物を仕留めるなかで、思索の対象は山から食、さらには生きるとは何かという領域へと向かっていく。
「自分の食べるものを自分で獲って殺すという体験を通じて、気持ち悪いとか、かわいそうとか、痛そうだとか、そこにいろんな感情があることを知った。スーパーで肉を買っていたころには気づかなかったけど、本来、食べるというのはこういう行為なんだと。動物を食べるのも植物を食べるのも本質的には同じこと。魚を釣り、肉を捕った後に土いじりに行き着くのは、自分の中では自然な成り行きだった」
現在は家族と暮らす横浜の自宅とは別に、月の半分以上を関東近郊の「秘密基地」で過ごす二拠点生活を送る。サバイバル登山の思想の延長として、水も食料も燃料も現地調達という自給自足の生活。作物の収穫に試行錯誤するうち、肥料や農薬を使った慣行農法の在り方に疑問を感じ、自身の畑では無農薬の自然農法を実践している。
「畑を始めて、うまくいったりいかなかったりするなかで、5~6年やったら、農薬を使わなくても結構ちゃんと作物ができるということが実感として分かった。土壌のバクテリアも自分の体の一部、生きるということはその土地と共生していくことなんだと。そういうわけで、今は山屋じゃなく百姓をやってます」
現在56歳。「年を取って落ち着いた、丸くなった部分もある」と口にするが、かつてのようなギラギラとした山への激情が失われたわけではない。今年7月には、上高地から北鎌尾根を通って槍ヶ岳、大キレット、奥穂高岳、ジャンダルム、西穂高岳を経て上高地に戻ってくるという“槍穂高ワンデイ一筆書き”を決行。バリエーションルートを含む国内最難関縦走路で、一般の登山者であれば4~5日もかかる道のりを20時間余りで踏破した。
「ちょっと前に、新穂高岳温泉から涸沢岳西尾根を通って、穂高連峰の4ピークを1日で往復してきたっていうトレイルランナーのお姉ちゃんに会ったんですよ。トレランの人たちの間では結構有名なルートらしくて。本来重厚だった穂高のルートもずいぶんお手軽なものになっちゃったなと、ちょっとフィールドを取られたみたいな悔しさもあった。
俺にもできそうだけど、やるならトレランの連中が絶対来れないクライミング込みのワンデイルートを作ろうと、北鎌尾根や前穂北尾根のフリーソロを入れて……。結局、北尾根は時間がギリギリで間に合わなかったんですけどね。若いときだったら絶対行けたと思うけど、落ちたら死ぬから、あんまり考えないようにしてる。ただ、そう言いつつまた来年も挑戦はすると思います」
山から畑へ。フィールドは変わっても、生きることへの思索と挑戦は続く。
あなたの“気になる”を教えてください