「なぜ私なの?」15歳の女子高生が突然発症 わずか1時間で動かなくなった体…絶望から這い上がった“転機”
15歳まで活発にテニスや陸上競技に打ち込んでいた少女が、高校入学直後、自宅で突然倒れた。体に痛みが走り、わずか1時間足らずで首から下が完全にまひした。そこから3年間の入院で、人生は一変。絶望の淵から這い上がったのは、家族や友人の支え、そして、絵画との出会いだった。口で筆を操る画家となったイスラエル人女性が、日本の風景を描いた理由とは。

突然の発症…たった1時間で様変わりした体
15歳まで活発にテニスや陸上競技に打ち込んでいた少女が、高校入学直後、自宅で突然倒れた。体に痛みが走り、わずか1時間足らずで首から下が完全にまひした。そこから3年間の入院で、人生は一変。絶望の淵から這い上がったのは、家族や友人の支え、そして、絵画との出会いだった。口で筆を操る画家となったイスラエル人女性が、日本の風景を描いた理由とは。(取材・文=水沼一夫)
イスラエル出身のネッタ・ガノールさんは、1979年10月生まれ。15歳までごく普通の生活を送っていた。
「優秀で社交的な生徒で、芸術と創造力に情熱を注いでいました。スポーツも大好きで、テニスをしたり、学校の陸上競技大会でメダルを獲得したりしていました。余暇には、ポリマークレイ、木、紙、毛糸、布、石など、さまざまな素材を使って手作りの工芸品を作るのが好きでした」
エルサレムで育ち、充実した日々を過ごしていたガノールさんの人生は、ある日突然、一変した。
数週間前に入学したばかりの高校から帰宅して、昼食を済ませ、読書感想文の課題として退屈な本を読もうと横になった。すると突然、異変が起きた。
「肩甲骨に鋭い痛みを感じ、それが全身に広がるしびれへと変わりました。全てが突然、そしてあっという間に起こりました」
痛みと同時に全身に広がるチクチクする感覚を覚えた。さらに足の感覚と運動能力が失われていくような症状が現れ、わずか1時間足らずで、首から下は完全にまひした。
「極限状態で恐ろしい瞬間でしたし、何よりもとても痛かったです。痛みがしびれに変わった瞬間から、すべてがあまりにも速く起こったため、すべてがぼんやりとしました。覚えているのは、友人と電話で話していた時、突然受話器が床に落ち、手と指が反応しなくなったことです。何が起こっているのかよく分かりませんでしたが、不思議な安心感を覚えました。まるで自分が安全な場所にいて、すぐに全てがうまくいく、すぐに元の自分に戻れるような気がしました」
その時、母と妹は家にいた。母はすぐに救急車を呼び、ガノールさんは病院に到着すると、集中治療室(ICU)に搬送された。
腰椎穿刺(せんし)やMRI検査など、一連の神経学的検査を受けた。10日後にようやく医師は診断を下した。横断性脊髄炎と呼ばれる、脊髄の重度の自己免疫性炎症で、頸椎C4~C5が侵されているというものだった。
当初、医師は両親に、ガノールさんが重度の脊髄損傷(頸部の横方向の炎症)を負い、肩から下のまひ(左腕は後に動きを取り戻したが)を引き起こしていると説明した。完治の可能性は極めて低いものの、最初の1年間は多少の改善が見られるかもしれないと明言した。両親はガノールさんを精神的に守ろうと、少しずつ、段階的に真実を伝えた。
「『あなたは永久的な損傷を受けており、一生まひが残ります』と、単刀直入に告げる医師は一人もいませんでした」
ICUで約1か月過ごした後、エルサレムのALYNリハビリテーション病院に移され、そこで約3年間を過ごした。理学療法、作業療法、水治療法などの治療を受けた。徐々に呼吸筋と左腕と肘の部分的な動きは回復したが、体の他の部分は今日までまひしたままだ。
もう二度と歩けないかもしれないと悟った時、ガノールさんの世界は一変した。

直面した過酷すぎる“現実”…「なぜ私なの?」
まだ高校生。思い描いていた未来は、別にあった。何の予兆もなく生じた体の異変、しかも完治の見込みがないと告げられることは、人生を奪われたようなものだった。想像を絶する苦しみに襲われた。
「私はうつ状態と悲しみに襲われ、無力感に苛まれ、『なぜ私なの?』と自問自答し続けました。しかし、家族は私を決して引き留めようとしませんでした。彼らは私を愛と励ましで包み込んでくれました。そしてある時、たとえ人生が以前と同じではなくなったとしても、諦めないと決意しました」
時がたつにつれ、ガノールさんは希望と、今も彼女を導いてくれる信念を持ち続けながら、新しい現実を受け入れることを学んだ。それは、身体的な制約があっても、人生は豊かで美しいものになり得るということだ。
家族、友人、そして学校の仲間たちの揺るぎない支えが、ガノールさんにとって大きな力になった。彼らは決してガノールさんを忘れられたと感じさせなかった。
転機となったのは、リハビリ中の出会いだった。
「リハビリ中に、足と口を使って絵を描く障がいのある女の子に出会いました。その出会いは私に深い感銘を与え、私もやってみなければならないという思いをかき立てました。最終的に、口と足で絵を描く芸術家協会(MFPA)の奨学生に選ばれ、そこから私の芸術の旅が始まりました。しかし、この出会いは私の人生をある意味で変えたと言えるでしょう」
病気になる前は、ガノールさんの価値観は学業とスポーツで優秀であることを中心に回っていた。それが、自立、創造性、そして障がいを持つ人も充実した意味のある人生を送ることができることを示すことへと変化した。
さらに、ガノールさんは母親にもなった。2人の息子の母親で、上の子は11歳半、下の子は4歳になる。どちらも代理出産で生まれた。

育児で感じたもどかしさ 乗り越えられたワケ
「つまり、生物学的には私の子ですが、他の女性が妊娠したということです。出産後は自然な適応期間がありましたが、重度の身体障害を持つ母親として、介護士の方々が子どもたちの世話をしてくれました。もちろん、自分で何もできないのはもどかしいことでしたが、私が乗り越えられたのは、感情的にも精神的にも寄り添っていたからです。たとえ私が物理的な作業をしていなくても、子どもたちはいつも私がそばにいてくれると感じていました」
母親になったことで、責任感、共感力、自己主張力、そして家庭と仕事の両立への願望が深まったというガノールさん。現在は、画家として活動している。自ら執筆してイラストも描いた、3冊の絵本を出版している。一方で、21歳でコンピューターサイエンスの理学士の学位を取得し、情報システム分野のコンサルタントとしての顔も持つ。イスラエルのハイテク産業が勤務先だ。
画家として、日本の風景を描いた作品にも力を入れている。
「私にとって、日本の風景全般、特に京都の風景は、日本の精神と文化を反映した、没入感あふれる体験のように感じられます。それは見た目の美しさだけでなく、絵を描く人や見る人の心にも影響を与えます。静寂、均衡、美的感覚、そして季節の移り変わりゆく色彩は、どれも特別なものを感じさせます」
今年10月、京都の紅葉をテーマに描いた三部作が絵葉書「Autumn in Kyoto」として日本で発売された。名所として知られる円山公園と永観堂は、口で描いたとは思えないほど繊細で美しい。友人のタミー・エリンソンとアリエル・エリンソンが日本を訪れた際に撮影した写真からインスピレーションを得たもので、1枚あたり20~30時間をかけて制作した。

口で筆を取り描いた「秋の京都」 心打たれた景色
「日本には行ったことがありませんが、どこかでずっと引かれるところがありました。静けさ、調和、清潔さ、そして細部に秘められたシンプルな美しさに。私自身、細部にこだわるタイプなので当然ですね。10代の頃、『ある芸者』という本に描かれた描写に魅了されたことを覚えています。その時から、いつかこのユニークな国を訪れたいと思っていました。これらの風景を描くことは、私にとって芸術を通して日本を旅し、その美しさと穏やかな精神への愛を表現する方法でした」
京都の秋を切り取った印象的な場面は、キャンバスにアクリル絵の具で描かれ、画家の生き生きとした感情が映し出される。
「彼らが撮影した数多くの写真の中で、円山公園と永観堂の写真の3枚に特に心を打たれました。これらの写真を通して、その場所の光、色、そして雰囲気とつながることができました」
今後の目標について、ガノールさんは語る。
「私の夢は、写実的な画家として成長を続け、現在進行中の『母性と障がい』というプロジェクトをさらに深め、このテーマで個展を開催することです。国際的なショーに参加し、いつか美術館で展示し、アートを通して私の人生の物語を世界中に伝え、もっと多くの児童書の執筆とイラスト制作に携わりたいと思っています」
家庭では、常に母親として、そして子どもたちが幸せで優しい人間に成長していく姿を見守りたいという。
深い絶望の中から立ち上がり、画家として世界を股にかけて活躍するガノールさんの姿は、体の不自由を超えた人生の可能性を照らしている。
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