3か月で50kg激痩せ…ブル中野が明かした驚きの減量法「みるみる痩せていくからガンかエイズ」疑惑も
柔道の五輪メダリストの“暴走王”小川直也が28日、自身のYouTubeチャンネルを更新。同チャンネルでは19日よりブル中野のチャンネルとのコラボ対談を公開中だが、その内容がなかなか興味深い。とくに今回は、「小川直也の暴走王チャンネル」でブル中野が明かした、30歳で女子プロレスラーを引退後、プロゴルファーに挑んだ際の舞台裏について触れる。

「ステロイドを打つと寿命が縮む? お願いします!」(ブル)
柔道の五輪メダリストの“暴走王”小川直也が28日、自身のYouTubeチャンネルを更新。同チャンネルでは19日よりブル中野のチャンネルとのコラボ対談を公開中だが、その内容がなかなか興味深い。とくに今回は、「小川直也の暴走王チャンネル」でブル中野が明かした、30歳で女子プロレスラーを引退後、プロゴルファーに挑んだ際の舞台裏について触れる。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
そもそもブルが現役生活にピリオドを打つと決めたのは、必殺技だったコーナーに上がってからのダイビングギロチンドロップが思った通りにできないことがきっかけだった。
「今飛べばお客さんはめちゃくちゃ湧いたのにそれができないんです。だからこのカラダで(現役プロレスラーを)やるのは失礼だなと思って辞めようと思ったんです」
引退後、久しぶりに実家に帰ると、母は「15年間ずっと働いて頑張ってきたのだから、仕事も何もしなくていいから休みな」とブルを気遣ったものの、この言葉が逆にブルの闘志に火をつけた。
「何もしなくていいって言われたら、何かしなくちゃって思ったんですよ。初めは悪役で(親にも)嫌な思いもさせちゃったけど、悪役として上にも行けて自慢の娘にもなったので、もう1回、自慢の娘になりたいなと思って何かやろうと思ったんですけど、プロレス以外にできることがないんですよ」
「働くって言っても何もできないし、じゃ、やってみたいことをやろうって思って考えたんですけど、やりたいことがゴルフしかなかったんですね」
現役時代のブルは、知人と何度かゴルフに興じた経験があった。そこでブルはすぐに行動を始め、プロゴルファーを目指すために奔走したが、その際にまずはじめに改善しなくてはいけなかったのが、自身の体重だった。その段階での体重は115キロ。結果的にブルはこの直後、3カ月で50キロ(!)の驚異的な減量に成功する。
「元々デビューした時は60キロ」だったブルは、そこから10年間で115キロまでに体型を変化させた。
ちなみに100キロを超えたのがアジャコングと金網デスマッチを闘っている頃(1990年9月)だったという。
しかも体重を増やそうと努力を重ねてきたものの、それでも90キロ台までしか太れなかったブルは、「ステロイドを打ったり男性ホルモンを打ったり。それで100キロを超えて。そこから115キロまで行って……」と話したが、要はステロイドを使うことにも抵抗がなかったこともあっさりと激白。というよりも「これを打ったら、絶対に寿命が縮むからね」と言われても、「わかりました。お願いします!」と平然と言ってのけたという。

115キロあったブル中野がみるみる痩せていく
これには思わず小川も、「それでもそこまでしたいっていう意欲があったんですね」と驚くしかなかったが、今度はそこから一気に50キロ落とすのだから、ブルの肉体には相当の負荷がかかったに違いない。
だからといって、「(115キロあって)ヒザも悪くて走れないし。腰も悪かったので普通に運動をできるカラダにしようと思って。(ゴルフ界に)入るまで3か月あったので、その3か月で動けるカラダにしようと思って。毎日ジムに通って50キロ(落とした)」と語った。
では、いったいどうやってそんな常識はずれの減量は成功したのか。その答えを、ブルはこう話した。
「(脂肪燃焼のための)有酸素運動を1日に5時間と1時間の筋トレを3か月間やりました。それと糖尿病の方の食生活を自炊でつくってやってました」
もちろん、自己流ではない。
「3か月という短い期間だったので、ジムのトレーナーさんと手探りで。短期間で痩せた人の例がなかったので……」と、そういった道のプロと相談しながらやり遂げたのだ。
しかしながらこの方法を実現するには相当のメンタルの強さが必要になるだろう。だから手法は分かってもそれが実践できるかといえば、それはまた別問題。その点は“女帝”と呼ばれたブル中野だからこそ、の話に違いない。
しかもそれだけ短期間に肉体が変化していくと、思わぬ疑いを持たれてしまう。
「みるみるみるみる痩せていくんですよ。毎日毎日同じジムに通っていくと、みるみる私が痩せていくと、噂が広まってガンになったのかエイズになったんじゃないかって」
この言葉には、思わず小川も反応した。
実は3か月で50キロとまではいかないものの、小川もプロ入りしてからかなり体型が変わった経験を持つプロレスラーだからだ。小川の場合は、師匠・アントニオ猪木の指令もあって、ブルと似たような期間で20キロ前後の体重を減らすことに成功していた。それでも十分すぎるほど別人に思える話だが、小川の場合は、それが物議を醸した「1・4事変」(1999年1月4日、東京ドームで「不穏試合」と呼ばれた橋本真也との一騎打ち)のタイミングと重なった。

小川直也は「1・4事変」でのクスリ疑惑を否定
当時を振り返って小川は、「(橋本戦には)クスリ疑惑がありましたよ。あいつクスリやってんじゃねえかって。だからあんなふうになっちゃったんだって。何もしてないのにそうやって言われちゃうんですよね」と小川が話すと、ブルも「太っても痩せてもなんでも言われますね」と返答。そこには両者の持つ共通のプロ意識が交錯していた。
ちなみにブルはプロゴルファーへの挑戦について、「はじめは日本でやって、その後、米国フロリダのオーランドで9年間」続け、結果としては40歳まで挑戦し続けたものの、それでも残念ながらプロゴルファーになることはできず、失意の帰国を果たした。
そして帰国後、2010年4月に結婚し、今に至る。
先にも書いた通り、小川のプロレス界の師匠はA猪木になるが、実はブルも生前のA猪木には多大なる影響を受けてプロレスラーを志した経験を持つ。そのため、ブルがプロゴルファーに挑戦した際に相談したところ、A猪木は『道』の詩を送り、ブルの挑戦を応援していたことも話していた。
「(『道』が書かれた色紙には)『祝合格』って(書いてある)。(実際は)合格してないんですけども、合格するように書いてくれて。その時に初めてサインもいただきました。みんな(ブルのことを)知っている人は反対して、30歳からなんてなれるわけがないし、せっかくプロレスで得た名声みたいなのが、マイナスからやることになるから、全部名前なくなるよ、とか、いろんなことを言われたんですけど、猪木さんだけは『すごいことだ』って。『全部を捨てて、イチから何度も挑戦するなんてなかなかできないことだから応援する』って言ってくれて。色紙をいただきました」
「人は歩みを止め、挑戦をあきらめた時に年老いていく」
これはA猪木が引退試合(1998年4月4日、東京ドーム)の直後、『道』の詩を口にする前に発した言葉だが、A猪木はブルにその精神を感じ、手放しで賞賛していたことになる。
なお、同企画では、それぞれのチャンネルで各々が聞き役となり、それぞれのたどってきた道を語り合っているが、その中にはA猪木に誘われたブルが1995年に新日本プロレスの北朝鮮大会に参戦。北朝鮮で唯一かつ史上初となる女子プロレスの試合を披露した結果、その日、最も絶賛された試合となった舞台裏も明かされている。
