2度の国政選挙に落選…キャリア40年の女子プロレスラー、試合前に渡される紙を拒否した理由
今年でデビュー40周年を迎えた“暴走女王”堀田祐美子が自叙伝『未完の大器』(ワニブックス)を上梓した。堀田らしさを連想させる名勝負の回顧録や、全日本女子プロレス(全女)時代の苦労話は鉄板ネタとしてつづられているが、今回は普段取り上げられることのない視点から話を進める。

「日本の病院王」と日本全国を遊説
今年でデビュー40周年を迎えた“暴走女王”堀田祐美子が自叙伝『未完の大器』(ワニブックス)を上梓した。堀田らしさを連想させる名勝負の回顧録や、全日本女子プロレス(全女)時代の苦労話は鉄板ネタとしてつづられているが、今回は普段取り上げられることのない視点から話を進める。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
今年も7月には参議院議員選挙が行われ、プロレスラーや格闘家も何人か出馬した。実は過去には堀田も国政選挙に2度出馬を果たしている。堀田が当時を振り返る。
「もちろん、私が出馬したいと願い出たわけではないよ。“全女”の会長に言われるがまま出たっていうのがホントのところだったけど、私が出ることで会社を助けられればと思っての出馬だった」
要は、それによって傾いていた会社がなんらかの金銭的な利益を得ることができたからこそ堀田が駆り出されたわけだ。最初は1998年7月にあった参院選。かつてはアントニオ猪木も党首を務めていた、スポーツ平和党から比例代表での出馬だった。
「街宣車に乗って、とりあえず手を振っていればいいよ」。党の関係者からそう言われた堀田は、ほとんど演説をする場面はなかった。結果は落選。堀田は「注目されても、あれで当選できると思っている方がどうかしている」と思ったという。
2度目の出馬は2001年7月の参院選、やはり比例区に出馬したが、今度は自由連合からの出馬になった。この時、何よりも影響を受けたのは、「日本の病院王」と呼ばれる徳洲会病院の徳田虎雄先生と一緒に日本全国を回ったことだった。
「選挙活動で私は、ほとんど徳田先生と全国を回り、それまで行ったことがないような小さな島も回ったりした。とにかく、徳田先生の熱量はもの凄く、どこに行っても熱心にやりとりをし、その日のスケジュールギリギリまで、ご飯も食べずに選挙運動をされていたのが記憶に残っています」
堀田はこれまでプロレス界で出会った人たちとは違った感覚を感じていた。
「そこで私が学んだことは、相手に自分の思っていることを気持ちを込めてどう伝えるか。マイクを使って有権者に対する演説をする時、先生はどうやっているのか。私はあの選挙で徳田先生を見ながら、たくさんの影響を受けたと思う」

「堀田さん、7分お願いします」
堀田はそれまでマイクはあまり得意ではなく、苦手意識が強かった。それが、徳田先生に関わらせてもらうことで、試合後でもマイクを持つことが怖くなくなったという。マイクアピールに関しては全女時代にこんなことがあったと回想する。
「一時期の全女では、試合前に小さな紙を渡されることがあった。その紙には、『勝ったら試合後はこれをしゃべってください』という内容の文言が書かれている。会社側からすれば、選手を試合に集中させたいがゆえ、試合後のマイクにまで気を使わせたくなかったのかもしれないし、その紙があることで助かった選手もいただろう」
しかし堀田に関して言えば、そこに書かれたことが自分の考えと一致するなり妥協点が見いだせればすんなり言葉が出てくるものの、まったく自分の考えには合わないことが書かれていた場合、それを口にすることがはばかられた。
「たとえば『今日の試合の出来はイマイチだったなー』と思っているのに、『おい、次の挑戦者は私だ!』なんてマイクを使ってアピールしたところで、そこに感情が乗っていないわけだから、相手や見ているお客さんに伝わるとは思えなかったから」
もしかしたらプロとしては、それもそつなくこなせなければいけなかったのかもしれないが、少なくとも堀田にはそれができなかった。
「もうそんな紙はいりません。重要なポイントだけ言ってもらえれば、それは言います。あとは私が思っていることを言わせてもらいます」
それ以降、堀田のマイクアピールは、下手くそでも自分が思った言葉を伝えているから、リング上で発した言葉は、決して不自然なマイクアピールにはなっていないという。
実際、8月29日にあった出版記念イベントの際、ゲスト出演したSareeeが過去にさまざまな先輩から、時には厳しく、時には優しく指導を受けてきた過去を振り返り、「ラッキーだと思っています」と口にすると、すかさず堀田は「(どんなに厳しくとも)ラッキーだと考えられることが素晴らしい」と続けた。昨今だと、耐えられない場面に遭遇したら逃げろ、と指導する手法も選択肢として挙げられるが、Sareeeや堀田はそう考えなかったからこそ今がある。
そして、堀田のその言葉選びも、選挙を通じて会得したのだと思うと、これまでの印象とは変わっていく。
事実、前回と違って自由連合での出馬は、さまざまな場所で関係者から演説の指示が入った。
「堀田さん、7分お願いします」
そう言われると、それが新宿や渋谷の交差点だろうと、人通りがまばらな田舎の駅前だろうと、7分間、壇上に立って人前で話をしなければならない。
「女子プロレスラーの堀田祐美子と申します。これから話をさせてもらうんですけど、その前に……申し訳ございません。私には今の政治のことはよくわかりません。でも、やる気だけは持っています。私の実現したいことは、これから子どもたちの教育を……」
そんな言葉から始まっていた堀田の演説は、聞く人によっては「そんなことしか言えないのか」「何を考えているんだ」「こんな政党に大事な一票を入れられるか!」と思った方もいるに違いない。
選挙結果翌日の朝にあった電話
それでも堀田は、それまで自分のやってきたプロレスと照らし合わせながら言葉を発するだけだった。
堀田としては、選挙の場だからこそ、絶対に嘘をつきたくないと思っていた。だからこそ普段からの思いを率直に口にした。
「いいこと言うね。それでいいんだよ」
もちろん、お世辞も多分に含まれてはいただろうけど、反応は決して悪くなかった。なにより私としては自分の思いを伝えることが一番だと思っていた。
興味深いのは、靴底に穴が開くほど駆けずり回って、懸命になって頑張っている徳田先生の姿を間近で見ていたら、いつしか堀田が当選したいという気持ちになっていたことだろう。
しかしながら結局は大した得票数を稼ぐこともできずに落選した。実は選挙の結果が出た日の翌朝、堀田は徳田先生から電話をもらっていた。
「お疲れ様でした。僕の力不足でした」
徳田先生の言葉を聞いて、堀田は以下のように返答した。
「お疲れ様でした。こちらこそ勉強不足で、大したご協力ができずに申し訳ございませんでした……」
堀田は思わず電話口で涙を流していた。
「堀田さんの気持ちは選挙中に伝わっていました。堀田さんは人に対する気持ちがあります。だからできれば、明日から僕と一緒に全国を回ってほしいです」
堀田は答えた。
「すいません。正直に言うと、私はプロレスがいろいろな人に知ってもらえればいいと思ったから選挙に出ました。そういう気持ちでやったのも本当にすいません。私にはプロレスラーとしてまだまだやりたいことがあるので……」
堀田はそう言って丁重に断りを入れたのだ。
「そっか、わかったよ。頑張ってね。ありがとう」
徳田先生は堀田の思いをわかってくれ、結局、その話はそこで終わった。後に伝え聞いた話だと、徳田先生は「この子の気持ちが直で熱かったから、政界に引っ張りたかった」と本当に堀田を政界に連れて行きたかったのだという。
「結局、徳田先生は去年の7月にお亡くなりになって、私もお別れ会には行かせてもらい、先生に手を合わせながら、本当凄い方だったと心から思った。それとあの時の選挙を通して、徳田先生の姿勢や夢への向き合い方や熱量は、私にいろいろなことを学ばせてくれた。そんな経験ができた私は幸運だった。今ある“暴走」”も熱い気持ちも徳田先生から学んだと思ってもらってかまわない」
(一部敬称略)
