プライドを持ち続けた橋幸夫さん、「御三家の1人」を嫌がった理由とは【記者コラム】

歌手の橋幸夫(はし・ゆきお)さん(本名・橋幸男)が4日午後11時48分、肺炎のため亡くなった。82歳だった。所属する夢グループが5日、発表した。橋さんを何度もインタビューしてきた笹森文彦記者が、プライドを持ち続けた橋さんの生きざまと、意外なエピソードを明かした。

橋幸夫さん【写真:ENCOUNT編集部】
橋幸夫さん【写真:ENCOUNT編集部】

芸名は…本人から意外なエピソード

 歌手の橋幸夫(はし・ゆきお)さん(本名・橋幸男)が4日午後11時48分、肺炎のため亡くなった。82歳だった。所属する夢グループが5日、発表した。橋さんを何度もインタビューしてきた笹森文彦記者が、プライドを持ち続けた橋さんの生きざまと、意外なエピソードを明かした。

 橋さんは、東京・荒川区の呉服店の9人兄弟の末っ子として生まれた。中学時代はボクシングに熱中していた。将来を心配した母親のサクさんが、歌謡教室に行くことを勧めた。知人の紹介で、中学2年生の時に新進気鋭の作曲家・遠藤実氏に師事した。

 遠藤氏は日本コロムビアの専属作曲家だった。橋さんは遠藤氏の自宅を初めて訪れた際、玄関で靴をきちっとそろえてから上がった。父親に厳しく仕付けられていたからだった。遠藤氏はその所作を見て、橋さんを弟子にすることを即決したという。

 レッスンを重ね、遠藤氏は橋さんのデビューを見据えて芸名を決めた。「舟木一夫」だった。遠藤氏は左右対称の名前は大成すると考えていた。橋さんも紙に書かれた芸名「舟木一夫」を何度も見せられていた。

 だが、橋さんは運命のいたずらで、日本コロムビアではなく、日本ビクターからデビューすることになった。そして、日本ビクターの専属作曲家だった吉田正氏が、本名の「橋幸男」を参考に「橋幸夫」と命名した。

 橋さんは、かつて取材のこの出来事を懐かしそうに話していた。

「遠藤先生に(芸名を)報告したら『そうか、残念だな…』って、とてもがっかりされていた。それで探したんでしょうね。3年後、コロムビアから今の舟木一夫君がデビューするんです」

 橋さんは17歳の1960年7月、『潮来笠』でデビュー。一躍、人気者となり、以後、歌謡界大全盛を支えたプライドを常に持ち続けていた。舟木一夫、西郷輝彦さんと「御三家」と呼ばれ、その長男として一世を風びした。ただ、比較されることを嫌った。

『潮来笠』や『沓掛時次郎』『子連れ狼』などの時代もの、『江梨子』「霧氷』などの青春歌謡、『恋をするなら』『恋のメキシカン・ロック』などのリズム歌謡。橋さんはさまざまなジャンルを歌いこなしていた。そのプライドが、比較されることや「御三家の1人」というイメージを固定されるのを嫌がった。

 21年10月、橋さんは80歳の誕生日(23年5月3日)をもって歌手を引退すると発表した。理由はコロナ禍で急速に進行した声帯の衰えだった。発表後にインタビューすると「(引退と言わず)ずっと歌っていない先輩もいる。僕は一つのけじめをつけたかった」と、信念を口にした。

 最近の歌謡界に関して苦言も呈していた。

「芸能界自体が激変しているでしょう。我々の時代の『先輩だ、後輩だ』という雰囲気がなくなってしまったしね」

 切磋琢磨して、歌謡界をけん引してきた橋さんは、最後までそんなプライドを持ち続けて逝った。その実績は文句なし。橋幸夫の名前と足跡は、歌謡史にしっかりと刻まれている。

次のページへ (2/2) 【写真】療養中、習字をする橋幸夫さん
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