【プロレスこの一年 #11】橋本真也と三沢光晴 ドリームカードが実現した2001年「ZERO-ONE旗揚戦」
武藤敬司が団体の垣根を越える超党派ユニットをBATTを結成
01年はまた、武藤敬司が狂い咲きをした一年でもあった。橋本の旗揚げを放送席から見守った武藤はその15日後、2月に全日本でスタートさせていた団体の垣根を越える超党派ユニットをBATTと命名、新日本3・17名古屋で馳浩を迎え入れた。武藤は4・14武道館で川田利明を破り三冠ヘビー級王座挑戦権を手にすると、6・8同所で天龍源一郎から王座奪取。新日本6・29後楽園では三冠ベルトを巻いて登場した。三冠王座が新日本のリングでお披露目されたのは、この時が初めてのことである。
「G1クライマックス」こそ初優勝の永田に譲った武藤だが、全日本10・22新潟では太陽ケアとのコンビで世界タッグ王座を奪取した。三冠と合わせ、武藤は全日本で5本のベルトを手にしたのである。そして10・27武道館では蝶野正洋を迎えて新日本対決による三冠王座戦が実現した。三冠を守った武藤は翌日の新日本福岡にケアと乗り込みIWGPタッグ王座まで獲得した。新日本と全日本のタッグ王座を同時に手にしたのは武藤が史上初めてで、合計6本のベルトを保持することに。しかも武藤の場合、そのすべてをしっかりと身につけて入場したのである。2大メジャー団体を股にかけて活動する王者の面目躍如といった入場シーンを各地で見せつけていったのだ。当然、この年のMVPである。
前年に結成され新日本の一大勢力となった蝶野のTEAM2000もまた、勢いを継続した。6月には5月の後楽園に乱入した邪道&外道を迎え入れ、10月には金本浩二も合流した。01年はK-1やPRIDEなど格闘技が人気を集める中にあって、橋本がZERO-ONE、武藤がBATT、蝶野がT2000と自身の城を拠点に自身のプロレスを究めた年でもあったのではないか。
一方、NOAHでは年頭に小橋建太が右ヒザ負傷で長期欠場に突入するも、GHCヘビー級王座を皮切りに、GHCタッグ王座も新設(初代王者はベイダー&スコーピオ組)。2年目に入り、着々と地固めをしていく年となった。
そして、格闘技ブームにおけるプロレスを象徴した出来事が大晦日に起こった。12・31さいたまスーパーアリーナ「INOKI BOM-BA-YE2001」にて永田がミルコ・クロコップのハイキックに21秒でTKO負けの衝撃。しかし、安田忠夫がギロチンチョークでジェロム・レ・バンナにまさかの逆転勝ちをおさめ、愛娘・彩美を肩車すると一躍国民的ヒーローに。プロレスラーが明暗を分けた大会だった。
海外では1月13日を最後にハードコア団体ECWが活動停止。3月にはWWFがライバルのWCWを買収し、26日のWCW「マンデー・ナイトロ」にWWFのシェイン・マクマホンが登場、WCWのオーナーに就任することを宣言した。WCWの番組をWWFが生で乗っ取るという前代未聞の放送だった。そしてこの年の「レッスルマニア17」では、そのシェインとビンス・マクマホンが父子対決をおこなっている。ビンスはその後、ECWの権利も買い取り、日本人メジャーリーガーTAJIRIも誕生、WWFのリングに上がった。9月11日には同時多発テロが発生したが、2日後には厳戒態勢を敷きながらも予定通り「スマックダウン」を開催。社名をWWEとしたのは、翌02年のことである。(文中敬称略)