「ゾウに打つ量の痛み止めを打った」女子プロレスラー、両ヒザへの人工関節手術を決断…直後に見た妙な夢
今年、デビュー40周年を迎えた女子プロレスラー、“暴走女王”堀田祐美子の両ヒザには人工関節が埋め込まれている。同じプロレスラーでは武藤敬司、ライオネス飛鳥のヒザにも人工関節が埋め込まれているが、堀田がこの手術をしたのは、今から2年前だった。今回はこれを取り上げる。

ヒザからマカデミアナッツほどの石が7つ
今年、デビュー40周年を迎えた女子プロレスラー、“暴走女王”堀田祐美子の両ヒザには人工関節が埋め込まれている。同じプロレスラーでは武藤敬司、ライオネス飛鳥のヒザにも人工関節が埋め込まれているが、堀田がこの手術をしたのは、今から2年前だった。今回はこれを取り上げる。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
堀田が最初にヒザの怪我をしたのはデビューして1年目にあった、元極真カラテの猛者・山崎照朝先生(故人)の指導の下に実施された合宿の時のこと。山のふもとで飛び蹴りを練習した際に着地した場所に、拳(こぶし)くらいの石があり、左足の靭帯を切ったのがはじまりだった。
そこから自然治癒で現役を続けて来たが、1997年3月に半月板損傷により左ヒザの半月板切除術をした。
その後、伊藤薫と伝説の金網デスマッチ(2001年12月16日、川崎市体育館)を行った際のこと。
「前の日に恵比寿駅を歩いていたらヒザが外れて動けなくなったの。その後、すぐに知人の車で治療に行ったけど、全然治らなくて。翌日の伊藤戦は医師に会場に来てもらって、痛み止めの注射を打って出たの。ただ、これ以上打つとゾウに打つくらいの量になるから、カラダに負担が来るからダメって言われながら試合に出たの」
ヒザに爆弾を抱えた堀田は、ゴングが鳴る前にリング上に消火器をぶちまけ、伊藤を場外に連れ出している。堀田はその理由を「リングの中だとまだヒザが痛いと思うから、もっとアドレナリンを出してからリングに上がろうと思った」と明かした。
さらに東日本大震災があった2011年には、右ヒザの関節遊離体を除去することになった。
「若い頃に靭帯を切ったのは左ヒザだったのに、私は右ヒザの手術をすることになった。どうやら昔から悪かった左ヒザをかばいながら試合を続けた結果、逆に右ヒザに負担がかかって、ヒザの裏側にあったマカデミアナッツほどの大きさの関節ネズミ(関節内遊離体)が7つも右ヒザから出てきた時は驚くしかなかったよ」
当然、手術をした医師から「よくこれで試合をやっていましたね」と言われたし、その際にも人工関節を勧められたものの、「そうなるとプロレスができなくなる」と言われたこともあって、堀田にはその選択はできなかった。
「その頃の私は、まだまだメインを十分に張れるだけの気力と体力にあふれていたから、そんなことで引退なんてできないと思っていたから」

よくわからない夢を毎日見た
事態が急転したのはそれから12年後、2023年のことだった。
「ついに日常生活に支障をきたすほど歩けなくなってしまったの。それでもなんとか歩いていると、その姿は前傾姿勢で、お年を召したおばあちゃんみたいだった」
その頃は試合のオファーがあっても断ることもあった。そうなると、もちろん人工関節の話が頭をチラついたものの、そこに踏み出すには勇気がいった。
そんな時、プロレスラーの武藤や、先輩の飛鳥が人工関節の手術をして、問題なく歩けていると知った。武藤も飛鳥も同じ先生の病院で手術を受けたという。
「それでも私は人工関節を入れることへの決断ができなかった。そんな状態でリングに立つなんて、本当にできるものなのか……。その点がどうしても腑に落ちなかった私は、痛くてもテーピングを巻いてだましだましリングに上がっていたが、日に日に歩くことさえつらくなっていた」
結局、堀田は検査だけは受けようと、東京・足立区にある苑田会人工関節センターを訪ねると、あれよあれよと手術日が決まってしまった。
「堀田さん、大丈夫ですよ。プロレスができる膝にしてあげますから」
執刀前に杉本和隆院長からそんな言葉をかけられた堀田は、生涯3度目となるヒザの手術を受けた。しかも両ヒザの手術を同時に受けたのだ。
「これは終わった今だから明かせる話だけれど、もし片足ずつだったら、私は次の手術は受けていなかったと断言するほど、とにかく痛くて仕方がなかったの」
堀田が手術室に入り、全身麻酔を受けてから5時間ほど経っただろうか……。
「無事に手術が終わり、手術室から出る時に麻酔から覚めた段階で、私はあまりの痛さに起き上がってしまい、術後せん妄になってしまった」
実はこれがいけなかった。本来は、どんなに痛かったとしても起き上がってはいけないものらしい。せん妄により妙な妄想や幻覚を見ることにつながり、場合によっては病院の窓から外を見ただけで、そこから飛び降りたくなる患者もいるそうだ。
「術後、私はあまりの痛さに眠ることもできず、かといって泣きたくても涙も出ず、飛び降りようにも立つことすらできずに、悪夢のような地獄の3日間を過ごした。今でも『米俵に入った米を、この箸でこの丼に全部移しなさい』なんてよくわからない夢を、なぜか毎日見ていたことを思い出す。あれはいったい、なんの意味があったんだろう……」
北斗晶からのお墨付き?
堀田にとって不幸だったのは、病院のベッドが微妙に硬くて、堀田には寝心地が悪かったこと。
「その時はネットショッピングでマットを1枚購入して、それでも足りず、もう1枚買ってなんとか眠りに就けるような散々な病院生活を過ごしていた。結局、私は19日間の入院生活を過ごした」
ちなみに、堀田が入れた人工関節は、アメリカから取り寄せたハイブリッド式のものらしい。杉山院長曰く、日本のものだと15年しか持たない場合もあるらしいが、「これだと35年は持つ」という話だった。
「私がその話を北斗晶にしたところ、『35年も持つのか。だったらその頃には……大丈夫だね』と、お墨付き(?)をいただいた」
結局、堀田は手術から18日後には無事に退院し、そこからはさまざまな方のサポートを経て、リハビリを続け、7か月後にはなんとかリングに戻ることができた。
「あれからもうすでに3年近く経った。今現在の状況はというと、痛みもなくめちゃくちゃ調子が良い。手術して本当に良かったとは思う」
堀田のようなスポーツ選手と一般人を比べた場合、完全に治せるかどうかには個人差があるようだ。というより、多少は痛みがあるくらいでないと、無理してヒザに負担がかかることを平気でしてしまうから、そのほうが総合的に見ると負担が少ないという。
そんな堀田は、今年でデビュー40周年を迎えるにあたり、自叙伝『未完の大器』(ワニブックス)を上梓したが、そこには人工関節のことを含め、これまで40年間を通じてあった、さまざまな紆余曲折が赤裸々につづられている。
(一部、文中敬称略)
