橋本真也、「小川直也に負けたら即引退」翌日秘話 恩師が激白「そんなに後腐れはないんやなと」
“暴走王”小川直也が15日、自身のYouTubeチャンネル「小川直也の暴走王チャンネル」を更新。2005年に脳幹出血で亡くなった盟友・橋本真也の恩師である高塚正敏先生との対談を公開した。動画内では生前の橋本の知られざる一面を披露している。

UWF移籍を踏みとどまった理由
“暴走王”小川直也が15日、自身のYouTubeチャンネル「小川直也の暴走王チャンネル」を更新。2005年に脳幹出血で亡くなった盟友・橋本真也の恩師である高塚正敏先生との対談を公開した。動画内では生前の橋本の知られざる一面を披露している。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
橋本は中学時代に父が失踪、高校1年生で母が他界したことから、それ以降、橋本にとって高塚先生は実質的な親代わりとなっていたが、それは橋本が新日本プロレスに入門してからも変わらなかった。たとえば橋本が新日本に入門してしばらくした頃、橋本から高塚先生に連絡が入った。
「夜11時くらいに電話がかかってきて、高田(伸彦/現・延彦)選手と前田(日明)選手に言われたから、ここ(新日本)から出て行く」
橋本はそう述べたという。当時、前田や高田は新日本を退団し、新団体としてUWFを設立するにあたり、若手の有望株だった橋本を誘ったのだ。この際、高塚先生は橋本の物言いに持論を述べた。
「前田選手や高田選手は知名度もあって、今スター選手やけど、お前の名前なんて誰も知れへんぞ。(新日本を)出て何するんや。今出て行ったって意味がないだろう。もうちょっと名前が売れてから出て行くならわかるけれども、何もやってないお前が、まだ入って1年や2年で辞めてもまたすぐに帰ってくるだけやぞ」
結局、この時の橋本は新日本に踏みとどまり、のちに武藤敬司、蝶野正洋と「闘魂三銃士」を結成することになるが、この話だけを聞いても、いかに橋本が高塚先生を信頼していたのかが分かるエピソードだった
さらに高塚先生は、橋本が小川との一戦を「引退」を賭けて臨んだ一戦について秘話を披露した。
2000年4月7日、東京ドームでの両者の一騎打ちは、「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退!スペシャル」としてテレビ朝日のゴールデンタイムで生中継された。
「小川さんとの最後の闘いの時に負けましたよね、橋本が。実は(橋本の自宅があった)横浜まで行ったんです。(自宅に)入っていったら、すごいイビキをかいて真也が寝とったですよね。(その後、)起きてきて話とったら、『めちゃいいい試合やったやないか』って話したら、『先生、これから飯食いに行きましょう』って中華街に連れて行ってくれまして。そしたら来とるファンの人らがワーワー言ってましたけども、(橋本は)ちょっと踏ん切れたような感じだったですよ、あの時。(小川に)負けたことに対して…」

アントニオ猪木は橋本にとって「神」だった
この発言を傍で聞いていた小川が呼応した。
「新日本っていう呪縛が振り払われて、一番、橋本真也(の本性)が出たって感じですよね。結構、それまで自分を押さえていたじゃないですか。やっぱり新日本の厚いガードで呪縛みたいなのがあったのが、あれで解き放たれたんじゃないのかなって」
以下、両者のやりとりを記載する。
高塚先生「内容的にはよく分かりませんけども、なんとなく(橋本が)晴れやかな顔をしていましたので。そんなに後腐れはないんやなと思って」
小川「あれが一番、橋本さんは納得したっていうのが多かったですね。やっぱり猪木さんの人柄も、それまでは俺を陥れる人なんだっていうのが話の節々に(あった)。でも、あの試合が終わってから、猪木さんに対しては…」
高塚先生「猪木さんに対してはめちゃくちゃ憧れがありましたよ」
小川「リスペクトが余計に強くなったんじゃないですか? 僕と闘っている時は、猪木さんのことを踏み絵にしたりとか、やっていたじゃないですか。やっとわだかまりが解けてきたみたいな。それで新日本を辞める話になっちゃうんですけど、あの時が一番(橋本は)清々しかったですね」
高塚先生「橋本から猪木さんへの悪いことは、一回も聞いたことはないですね。それこそ、(新日本に)入ってから辞めて、死ぬまでは、一言も悪いことは聞いたことなかったですね。やっぱりあれ(橋本)の中の神様ですよね」
小川「だから猪木さんに対しては、これだけ好きなのに、猪木さんが自分のほうを向いてくれないっていう(歯痒さが)あったんですよね」
高塚先生「その話、分かりますよ」
小川「それで、あの闘いで、(猪木が)俺(橋本)のことを思ってくれたんだっていうのが少し、見れたんじゃないですか? あの時、猪木さんもいろいろ橋本さんに言ってましたからね。あの闘いで(橋本は)新日本は去るわっていうカタチで、覚悟を決めていたので」
このあたりのやりとりは、いかに橋本が猪木を師事しながら、誤解を恐れずに言えば、恋愛に近い感覚を思わせるような想いを持っていたことが分かる。
さらに高塚先生は、橋本が師匠である猪木と対戦した時のことも覚えていた。
1990年2月12日、東京ドーム。猪木が参議院議員に当選してから初めての試合だった。猪木は坂口征二と組み、橋本、蝶野と対戦。試合前に橋本が「時は来た!」と発言し、隣にいた蝶野が思わず苦笑いしてしまった一戦である。
「打ち上げに行ったら、猪木に青タン(内出血)ができていた」と高塚先生は口にした。たしかに猪木は橋本の重爆キックを受け、右目の下に青タンをつくっていた。

生きていれば、“破壊王”は今年で還暦
橋本にとっては、思い入れの深すぎる相手だっただけに、いつも以上に気合が入っていたことを証明したような試合だった。
興味深いのは、高塚先生が青タンつながりで、中学時代の橋本がやらかしたヤンチャ話を披露したことだろう。
「(橋本の)あの蹴りは中学校の時ですよ。僕はこういう仕事(整体師)ですので、(橋本の)後輩が足(太もも)の裏を内出血して、黒くして(治療に)来るんですよ。なんで同じようなヤツが何人か来るなあって」
「なんでこんな足の裏に青タンができてくるのかな。柔道だったらこんなところに青タンができることはあらへんからおかしいなと思ったら、1人のヤツがこそっと話してくれたのが、『橋本先輩に蹴られました』って」
要は、橋本が中学生の頃、猪木がプロボクシング世界ヘビー級王者、モハメッド・アリとの「格闘技世界一決定戦」(1976年6月26日、日本武道館)で使用したことで一躍有名になった、相手の大腿部の裏側を蹴る、いわゆるアリキックを、橋本が何人かの後輩を相手に、見よう見まねで放っていたという話だった。高塚先生の言うように、橋本にとって猪木は「神」以上の存在だったに違いない。
しかしながら結果的に橋本は、恩師に対し、一番してはいけないことをしてしまった。今から20年以上前に、早々とあの世へと旅立ってしまったからだ。
当然、小川との対談ではその日のことも語られている。
2005年7月11日のことだった。高塚先生が中学生の部活の指導をしていると、橋本の妹から連絡が入った。
「お兄ちゃんが亡くなったって聞いて、俺、聞いてないよって。たしかNHKの12時のニュースでやってましたので、(橋本の棺のある)横浜まで(車で)走って、本物を見たら、亡くなっとるわって」
この後、高塚先生は衝撃的な一言を発した。
「あれ、お母さんの亡くなり方と全く同じですよ」
橋本は、自分を産んだ母親と同じく脳幹出血により天寿を全うしたのだ。
「僕は(地元である岐阜県に)戻って来るもんやと思ってたんですけども。こんな状態で亡くなるとは大ショックでしたね」
ちなみに、もし橋本が生きていれば、今年で還暦を迎えている。赤いちゃんちゃんこを着た橋本はいったいどんな“破壊王”になっていただろうか。
この問いに対し、高塚先生は「そのまんまだと思いますよ」と答えた後、次のように話を続けた。
「60になろうが80になろうが、思うまま気の向くままの、そこが(橋本の)ええところですね」
(一部敬称略)
