95歳で救急搬送、延命治療を懇願「何があっても生かして」 被爆者女性が「まだ死ねない」と語るワケ

太平洋戦争終戦から15日で80年を迎える。同日午後1時放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』では、SNSを駆使し悲惨な体験を伝え続ける“96歳のインフルエンサー”森田富美子さんが出演、司会を務める91歳の黒柳徹子と当時を振り返る。戦後80年、SNSで語り部を始めるまでには、どんな物語があったのか。今年6月に『わたくし96歳#戦争反対』(講談社)、7月には『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』(KADOKAWA)と2冊の著書を相次いで上梓。96歳の今も自ら投稿を続ける富美子さんに、延命治療を志願した病との闘いと「まだまだ死ねない」と語る使命を聞いた。全2回の後編。

SNSで戦争の体験を伝える森田富美子さん(左)と長女の京子さん【写真:ENCOUNT編集部】
SNSで戦争の体験を伝える森田富美子さん(左)と長女の京子さん【写真:ENCOUNT編集部】

戦後世話になった義母から言われた、忘れられない“醜い言葉”

 太平洋戦争終戦から15日で80年を迎える。同日午後1時放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』では、SNSを駆使し悲惨な体験を伝え続ける“96歳のインフルエンサー”森田富美子さんが出演、司会を務める91歳の黒柳徹子と当時を振り返る。戦後80年、SNSで語り部を始めるまでには、どんな物語があったのか。今年6月に『わたくし96歳#戦争反対』(講談社)、7月には『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』(KADOKAWA)と2冊の著書を相次いで上梓。96歳の今も自ら投稿を続ける富美子さんに、延命治療を志願した病との闘いと「まだまだ死ねない」と語る使命を聞いた。全2回の後編。(取材・文=佐藤佑輔)

 長崎で5人きょうだいの長女として生まれた富美子さんは、16歳のとき、原爆で両親と3人の弟を一瞬のうちに奪われた。戦後は妹と共に叔父の家に引き取られ、20歳でお見合い結婚。体の弱かった義父母の看病、家業の手伝い、4人の子育てなど、悲しむ間もなく働いた。叔父叔母夫婦にも、義父母にも大変な世話になったと振り返る富美子さんだが、ある時、病床に伏した義母から投げかけられた一言は今でも忘れられないと口にする。

「長男が2歳になったある日、義父母に呼ばれた。2階の座敷だった。義母が言った。

『原爆孤児やったけん、長男の嫁にしたと』

 原爆? 孤児? 一瞬何の話かわからなかったが、言葉の意味がわかり、義父の顔を見た。義父も一瞬顔色を変えた」(『わたくし96歳#戦争反対』から引用)

 終戦からわずか8年の当時、戦争で親を亡くした子どもたちは日本中にいた。「孤児」という言葉の持つ露骨さは、平和な今の時代とは比べ物にならないものだ。富美子さんは「決してそういうことを言う人ではなかった。頭が良くて、美人な人だった」と義母のことも慮りつつ、義母に近しい親族が亡くなるまで、その醜い言葉をずっと胸の中にしまい込んできた。今回、本の執筆にあたり長女の京子さんにこのエピソードを明かしたのは、昨年の暮れ、義妹の夫が93歳で永眠したときだという。「義母が口にした醜い言葉を知って傷つく人は誰もいなくなった」。書籍化の話がなければ、墓場まで持っていくつもりだった。

 義母に限らず、戦争にゆがめられた人間の醜悪さは幾度も目にしてきた。「戦地帰りの男性は、現地で行った残虐行為を毎回武勇伝のように自慢していました。『することをした女は橋の上から川に投げ捨ててやった』と。普段はとても優しい人だったのに。戦争は人間を人間でなくしてしまうんです」。長らく、過去の出来事について口にすることはなかったが、当時の生々しい現実を伝えることこそが戦争体験者に課せられた責任だと、90歳を過ぎてSNSでの発信を始めた。

 現在も週に3日はジムに通い、認知症などの脳の衰えもまったくない富美子さん。だが、これまでに大病と無縁だったわけではない。73歳のときには定期健診で肺がんが見つかり、手術で左肺の大部分を除去。5年後の07年には「今こそ自分のしたいことをしよう」と長崎から上京し、東京で暮らす長女・京子さんとの2人暮らしを始めたが、その翌年には急性期脳梗塞を発症した。

「朝、日課の化粧をしていたときにブラシが口元まで届かなかった。長女に伝えると、『サインだ』と言ってすぐに近くの総合病院へ行きました。先生からは『こんなに早い段階で病院に来るなんて奇跡です』と。長崎にいたころは、日中1人で過ごす時間も多かった。もし、東京に来ていなければ、そのまま気づかずに亡くなっていたかもしれません」

 長崎で一緒に暮らしていた長男の反対を押し切り、なかば家出に近い形での上京だったが、結果的にはその決断が一命を取り留めることにつながった。しかし、翌年には長年持病を患っていたその長男が逝去。上京の決断には今でも葛藤の思いが残る。「長男には申し訳ないことをした。ただ、東京での生活は本当に刺激にあふれていて楽しかった。あのとき東京に出てきたからこそ、今の私の人生がある」。長男の通夜のあと、しばらくは長崎に留まっていたが、都民として生きていくことを決めた。

森田富美子さんと京子さんによる2冊【写真:ENCOUNT編集部】
森田富美子さんと京子さんによる2冊【写真:ENCOUNT編集部】

大腸ポリープの除去、トラックとの交通事故…立て続けに災難も「自分は守られているのでは」

 長男の死から数か月の間には、下血から発覚した大腸ポリープの除去、トラックとの交通事故など、立て続けに災難に見舞われたが、いずれも大事には至らず。このころから「自分は何かに守られているのでは」という思いを抱くようになったという。コロナ禍の21年には糖尿病と診断され即時入院を強く勧められたが、面会できない状況で入院となれば認知症リスクが増すと考えた長女・京子さんが猛反対。それまでスマホで行っていた血圧や体重の記録に加え、血糖値も自己管理すると主治医に約束、3か月間の定期通院で正常値に戻した。

 23年からはすい炎と胆のう炎を発症し、激痛に襲われ救急搬送されることも。昨年9月、総胆管に詰まった石の除去手術の際には、医師から「ご家族の方に大切なお話があります」と切り出された。長女の京子さんが当日のことを振り返る。

「楽しみにしていた雑誌取材の前日でした。深夜に腹部の痛みを訴える母を救急車に乗せ、受け入れ先の病院に向かいました。取材はキャンセル、翌日大きい病院に転院することになり、そこの担当医が私に話したのが延命治療はしますか、しませんかの話。母は高齢ですが、認知症もなく、大事な判断も意思表示も自分でできる。担当医には、直接本人と話すように伝えました」

 事態を飲み込み、担当医と対面した富美子さんに、医師は相当な熱量で延命治療のつらさを説明。傍らで聞いている京子さんが「まるで脅しのように、治療を諦めさせようとしているようにさえ思えた」と感じるほどだったという。説明が終わると、富美子さんは静かに身の上を語り始めた。

「私は両親と弟3人を原爆で亡くしました。大切な人たちも亡くしました。私は家族をこの手で火葬しました。もう誰にも私のような体験をさせたくありません。(中略)昨日も取材を受けるはずでした。その取材は受けなければいけません。他の取材も入っています。まだ途中です。ここで終わるわけには行きません。何があっても終わらせないで下さい」(『わたくし96歳#戦争反対』から引用)

 なおも治療の過酷さを説く医師に、富美子さんは「私の家族も大切な人たちも、もっと苦しい思いをして亡くなったんです。それくらいなんでもありません」「どんなことをしてでも生かして下さい。私は耐えられます。お願いします」と嘆願。結局、最後まで治療をやり通すことになったという。

「戦争の体験を伝え始めたのは90歳を過ぎてから。もっと早くに始めていればと思うこともありますが、この年齢だからこそ、こうやって注目してもらえる。まだまだ死ねない。もっと伝えていかなけばならないことがたくさんあります。それがこの年まで生かされた私の使命だと思うのです」

 戦争の悲惨さと反戦への祈りが、SNSの力で若い世代にも届くことを願っている。

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