長崎で被爆した96歳女性、SNSで発信する爆心地の記憶 伝え続ける気力「まだまだ」

長崎への原爆投下から、9日で80年を迎える。当時を知る人が少なくなる中、96歳という年齢でSNSを駆使し、悲惨な体験を伝え続ける女性がいる。「わたくし96歳(@Iam90yearsold)」というアカウント名で発信を行い、今年6月4日に『わたくし96歳#戦争反対』(講談社)、7月19日に『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』(KADOKAWA)と2冊の著書を相次いで上梓した森田富美子さんに、両親と3人の弟を一瞬で奪われた夏と、その後の80年の日々、「まだまだ死ねない」と語る今の思いを聞いた。全2回の前編。

SNSで戦争の体験を伝える森田富美子さん(左)と長女の京子さん【写真:ENCOUNT編集部】
SNSで戦争の体験を伝える森田富美子さん(左)と長女の京子さん【写真:ENCOUNT編集部】

両親と弟を自ら火葬 手についた家族の血を「何度も手のひらにすり込みました」

 長崎への原爆投下から、9日で80年を迎える。当時を知る人が少なくなる中、96歳という年齢でSNSを駆使し、悲惨な体験を伝え続ける女性がいる。「わたくし96歳(@Iam90yearsold)」というアカウント名で発信を行い、今年6月4日に『わたくし96歳#戦争反対』(講談社)、7月19日に『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』(KADOKAWA)と2冊の著書を相次いで上梓した森田富美子さんに、両親と3人の弟を一瞬で奪われた夏と、その後の80年の日々、「まだまだ死ねない」と語る今の思いを聞いた。全2回の前編。(取材・文=佐藤佑輔)

 1929年6月、長崎で5人きょうだいの長女として生まれた富美子さん。16歳で迎えたその日は、女学生で組織された「報国隊」として、家から10キロほど離れた長崎湾対岸の軍需工場に働きに出ていた。午前11時2分。トンネルの中に作られた工場で友人と雑談をしていた森田さんの耳に轟音が鳴り響く。

「吹き込んだ爆風で倒れこみ、『長崎駅が燃えとる!』という声を聞いて飛び出すと、長崎の街の上に、黒くゆがみながら、だんだんと金色に光り始めた大きなキノコ雲が見えました。すぐに乗合船で海を渡り、長崎駅まであと5分というところまで行ったけど、空気が燃えるように熱くて進めない。防火用バケツの水を3杯かぶって、大きく山伝いにまわって歩き続け、一睡もしないまま道端で夜を明かしました」

 明け方、空が白み始めるころに、焼けて剥がれた全身の皮膚を引きずって歩く大きな男性とすれ違った。その先は男か女かも分からないほど全身が焼けただれた負傷者と死体ばかり。「きっと家だけは大丈夫」。辺り一帯を焼け野原とした爆心地が、祈りながらたどり着いた我が家からわずか200メートルの場所だったということは、後年になって知ったという。

「生きていたのは妹だけ。原爆の1週間ほど前、学校帰りに機銃掃射に遭ってから、怯えて1度も防空壕を出なかった妹が『みんな死んだ。みんな死んだ』と泣きながら教えてくれました。父は吹き飛ばされず残った門柱に寄りかかったまま、黒焦げに炭化していました。口には爆風で飛んできたがれきがたくさん詰まっていた。母と弟2人は家のあった場所で真っ黒な塊になっていて、いつも川で遊んでいた上の弟は最後まで見つかりませんでした。私は転がってあったトタンの上に父と母と2人の弟を乗せ、その場で家族を火葬しました。手には黒いすすと血のりがベッタリとついて、私に残されたのはこれだけだ、家族はもうここにしかいないのだと、何度も何度も手のひらにすり込みました。涙は一滴も流れませんでした」

 戦後は妹と共に叔父の家に引き取られ、20歳で結婚。体の弱かった義父母の看病、家業の手伝い、4人の子育てなど、悲しむ間もなく働いた。家業の衣料品店は大きくなり、子育てが落ち着いたころに化粧品コーナーを拡大。富美子さんがオーナーとなり経営にあたった。8月9日の出来事について口にしたのは、終戦から33年後の1978年、強い勧めが受け、それまで取得を拒否してきた被爆者健康手帳の申請手続きを行ったとき一度きり。その翌年、夫が心不全で急逝。その夫も被爆者だったと知ったのは、亡くなった数年後のことだ。

「海軍の通信兵で呉にいたことは知っていましたが、広島に原爆が投下された後、現地へ救護に向かったという話は聞いたことがなかった。私は長女から、長女は長男から聞いたと言っていました。私も夫も、原爆のことは一度も口にしたことがなかった」

「私ももう90歳。そろそろ言いたいことを言ってもいいのでは」とSNSでの発信を開始

 78歳で地元・長崎から上京し、東京で長女・京子さんと暮らし始めた富美子さんが、SNSで戦争の体験を伝え始めたのは2019年、90歳のとき。日々国会中継を見る中で政治に対する不信感が募り、「私ももう90歳。そろそろ言いたいことを言ってもいいのでは」という思いが湧いてきた。2000年代初頭に普及し始めたノートパソコンに70歳から親しんできた富美子さんにとって、SNSの運用は難しいものではなく、96歳の今も自らの指で日々投稿を行っている。

 フォロワーは今や8.7万人。「96歳のインフルエンサー」「SNS時代の語り部」として、メディアの取材を受ける機会も増えた。しかし、記事になるのはいつも膨大な記憶の中のほんの一部分だけ。毎回、掲載された内容を読むたびに「戦争の本当はこれだけじゃない」という複雑な思いが募った。

 富美子さんが最も気にかけているのは、原爆投下の翌日、爆心地であった1人の女の子の消息だ。

「『おねえさん』と声をかけられました。振り向いてゾッとしました。髪の毛が茶色く逆立ち、着ているものもボロボロの女の子が立っていました。『○○です』と名乗りました。隣町の工場で一緒だった14歳の女の子です。『鹿児島に帰りたい』と言います。どうにかしてあげたい、でもどうすることもできません。『長崎駅に行ってみたら』それしか言えませんでした。そう言って、長崎駅の方を指差すことしか。私自身もいっぱいいっぱいだったのです」(『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』から引用)

 女の子は鹿児島の奄美大島から女子挺身隊として長崎に来ており、工場で一緒だった富美子さんのことを「おねえさん」と呼び慕っていた。2020年、4時間にも及ぶ最初の取材を受けたあと、京子さんは富美子さんの記憶を頼りにネットや図書館で当時の資料にあたり、女の子の消息をたどった。鹿児島県庁や奄美大島の役場にも問い合わせを行ったが、名簿や資料はすでに焼却処分されており、行方は分からずじまいだった。

 もし女の子が無事に郷里へ帰れていたら。存命ではなくとも、生涯をまっとうできていたら――。歴史資料やメディアの取材ではすくいきれなかった記憶の断片を書き留めようという思いから、今回、2冊の本の出版に至った。もうひとつの理由は、平和の中で生きた戦後80年の人生を振り返るため。後編では、紆余曲折あった戦後の生活と、病との闘い、「まだまだ死ねない」と語る今の思いを聞いた。

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