最凶の売春地帯で「殺されかけた」 売春婦たちの機転で九死に一生…命知らずのルポライターが歩む綱渡りの人生
住む場所を選ぶ時、多くの人がまず重視するのは、治安のよさだろう。旅行でもわざわざ危険を冒して、裏路地に入る人は少ない。しかし、世の中には、あえてそのリスクを好む人もいる。歌舞伎町の通称「ヤクザマンション」と呼ばれる建物に住み、西成など有名なドヤ街でたびたび寝泊まり。海外に行けば“立ち入り禁止”の売春地帯に潜り込み、「殺されかけた」と語るほどの修羅場をくぐり抜けた。そんな破天荒な生き方をつづった新著『ワイルドサイド漂流記 歌舞伎町・西成・インド・その他の街』(文藝春秋)の著者が、ルポライターの國友公司さんだ。詳しい話を聞いた。

筑波大卒業に7年 新宿二丁目で男娼として働いた
住む場所を選ぶ時、多くの人がまず重視するのは、治安のよさだろう。旅行でもわざわざ危険を冒して、裏路地に入る人は少ない。しかし、世の中には、あえてそのリスクを好む人もいる。歌舞伎町の通称「ヤクザマンション」と呼ばれる建物に住み、西成など有名なドヤ街でたびたび寝泊まり。海外に行けば“立ち入り禁止”の売春地帯に潜り込み、「殺されかけた」と語るほどの修羅場をくぐり抜けた。そんな破天荒な生き方をつづった新著『ワイルドサイド漂流記 歌舞伎町・西成・インド・その他の街』(文藝春秋)の著者が、ルポライターの國友公司さんだ。詳しい話を聞いた。
國友さんは1992年生まれの33歳。東京・練馬区に生まれ、中学卒業まで那須で過ごした。埼玉県の高校を経て、大学は筑波大に進学。一見、優等生の道を歩んでいるように見えるが、卒業まで7年を費やした大学時代に、大きく人生は転換した。
海外旅行の資金を稼ぐため、新宿二丁目のゲイマッサージ店で男娼としてアルバイトを開始。さらに、縁あって作家のクーロン黒沢さんと知り合う。そして2017年、大阪のなんばでトークショーに参加した際、出演者とともに泊まったのが西成のドヤ(簡易宿泊所)だった。
そこで國友さんは衝撃を受ける。黒沢さんは、アンダーグラウンドな題材を執筆することで知られている。
「そういう人の周りにいる人って、ちゃんと社会で生活してない人ばっかりだったんですよ。本当にめちゃくちゃな人ばっかりだった。1回も働かずに日本で3か月ぐらいバイトしながら海外行って、麻薬やりまくるみたいな。ちゃんと就職していくような社会人しか知らなかったんですけど、こういう人生もあるのか、というのはその時に知りましたね。かなり視野が広がったというか、ちゃんと生きなくてもいい道があるんだなってそこで知りました」
國友さんは少年時代から、周囲と自分を比較しがちだった。
「子どもの時は、すごい人見知りかつ人の目を気にして生きていました。髪の毛切っただけでも学校行けなくなっちゃったりとか、そんな感じだったんですよ。小学校も完全にそうで、中学校、高校までも割と人と比べながら、みたいな人生をずっと送っていました」
中高と野球部に所属し、活発な一面も見せていた反面、劣等感を持ちやすく、外見には人一倍、敏感だった。
「丸坊主にすると、それだけで学校に行くのが嫌になるくらいでした」
大学は他の学部に比べ、入りやすかったという理由で建築デザイン系の学科に進学した。「やっぱ周りと自分をずっと比べていて」と本質は変わらず、夢ややりたいことに突き進む同級生を遠目に眺める日々だった。
自信を失い、将来の展望も描けずにもがいていた國友さんは西成という地で、これまでにない感情を覚える。社会の型にはまらなくても、自由に生きる人たちの姿は、まるで別世界の住人のように思えた。
「大学へ戻ると、人と比べたりしなくなりました」。國友さんは黒沢さんの後を追うように、アンダーグラウンドな世界に足を踏み入れていく。

歌舞伎町に住んで6年 親分の到着を待つ構成員たち
卒業後、西成に長期滞在し、ルポライターとして活動をスタート。2019年からは歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に引っ越した。
「『ヤクザマンション』というだけあって、マンションの中にはヤクザがわんさかいた。上層階に行けばヤクザの事務所があったし、エレベーターでもよく出くわした。朝なんか、マンションのエントランスで構成員たちが親分の到着を「きをつけ」して待っているので、裏口からこっそり出て行かないといけない」と、著書の中では記している。
國友さんは海外旅行でも、ダークな世界に関心を持つようになった。誰もが訪れる観光名所にはまるで興味を示さず、できれば避けたいその土地の治安がいいとは言えないエリアを調べ、突入した。
当然ながら危険と背中合わせになった。
中でも、「あれが1番ですよ。忘れられないです」とワースト1位に挙げるのは、19年にインド滞在中に起こった“監禁未遂事件”だ。
訪れたのは、インド最大級の売春街がある首都ニューデリーの「GBロード」だった。
観光客の立ち入りを推奨しておらず、もちろん、日本人の姿はない。
好奇心にかられて、通りを歩いていると、現地のインド人男性から「女性はどうか」と声をかけられた。「顔だけ見たい」と答えた國友さんは、迷路のような雑居ビル群の奥へと案内される。ビルとビルをつなぐ増築された通路を通り、高層階に上がると売春婦の部屋があった。そこに入った瞬間、暗闇から突然複数の男が現れ、後ろから羽交い絞めにされた。
事前に危険性を調査していたが、「大体そういうのはあおってるだけ」と思い込んでいた。
「ここもそんなもんだろうと思って行ったら、実際、本当にやばかった。目論見が外れた結構珍しいパターンでした」
後悔が冷や汗となって噴き出る。状況はさらに悪化した。

暗黒の無法地帯で直面した衝撃の体験
「引きずり回されて、最終的に牢屋のような場所まで連れていかれました。鉄格子がある牢屋に3人がかりで押し込まれそうになりました」
3人の男たちは20代前半と見られ、腕力があった。ヒンディー語で会話しており、彼らの目的や意図が理解できなかったことも恐怖を増幅させた。父の影響で幼い頃からK-1にはまり、“ロシアの速射砲”ルスラン・カラエフのファン。大学1年からキックボクシングを習っていた國友さんだが、太刀打ちできなかった。現金などの貴重品は宿に置いてきており、最低限の備えはしていたものの、護身用の武器は持っていなかった。
「殺されるかと思った」
危機一髪のところで鉄格子の細い棒をつかみ、必死に叫び続けたところ、それを聞きつけた売春婦たちが集まってきて男たちをなだめ、隙を見て逃げ出すことができたという。犯人たちの目的については「とりあえず外国人を捕まえて、その後どうするか考えるみたいな感じだった。捕まえてから『じゃあこいつどうするか』みたいなことを話していた。その無計画な感じがまた怖かった」と語った。
一歩間違えば、本当に命を取られかねない。
苦い体験をした國友さんは、「解放された時の生きている実感はすごかった。日本では決して味わえない感覚だった」と力を込めた。

次なる目標は日本人の“絶滅危惧種”探し
一方で、少し時間がたつと、再び刺激を欲している自分がいた。
「海外旅行に行くと、結局、楽しかった思い出よりつらかった思い出が後に残るんですよ。楽しかった思い出って、1週間後なら思い出せますけど、10年とかたつと残ってなくて。つらかった思い出だけがずっと残っている。つらい思いをしたほうが思い出になるということは言いたいかもしれないですね」
國友さんは、再びインドに引き寄せられていた。
「今年もまた一度行きたいですね。次に行こうと思っているのは、インドにまだあるといわれている“日本人沈没宿”です。日本で働きたくないから物価が安いインドに居ついてダラダラと過ごす、そんな日本人がいっぱいいる宿に行って話を聞きたい。昔はタイにもそういう場所があったけど、経済の発展でなくなってきていて、でもインドには、その生き残りみたいな人がまだいる。いなくなる前に、ちょっと見ておきたいですね」
同じ日本人でも“絶滅危惧種”のような人たち。
「そういうアウトロー、あるいは世捨て人のような生き方って、今の日本人はしないような気がしていて。自分もそれはできない人間なんですよ。結構慎重に生きてきた自負があるので。なので、そういう後先考えずに、その時の感情だけで動く人に若干憧れを持っています」
歌舞伎町に6年住んだ。横浜のドヤ街・寿町に部屋を借りて2拠点生活したり、一時期は河川敷に暮らしていたこともある。現在は、そうした型破りな居住エリアからは足を洗い、横浜市内のとある駅から徒歩25分の物件で暮らしているが、本能的に追い求めるものは変わっていない。人生には、ひとつの正解だけがあるわけではない。國友さんは、持ち前の行動力で、我が道を突き進んでいく。
