【マリーゴールド】“スーパールーキー”18歳山岡聖怜が語った本当の自分、デビュー前は「家ではずっと泣いていました」
「スーパールーキー」。この言葉は、18歳の山岡聖怜に常に付きまとっていた。しかし彼女は、この言葉を「うれしい」「ありがたい」と思うだけではなく、この言葉の上を目指していた。はっきり書いてしまうと、世間は彼女を誤解している。山岡は、客観的に今の自分自身を分析していた。プロレスに真摯に向き合っている、山岡聖怜のリアルな声をお届けする。

ケガをしているときに出会ったプロレス、完治してからの道は即決だった
「スーパールーキー」。この言葉は、18歳の山岡聖怜に常に付きまとっていた。しかし彼女は、この言葉を「うれしい」「ありがたい」と思うだけではなく、この言葉の上を目指していた。はっきり書いてしまうと、世間は彼女を誤解している。山岡は、客観的に今の自分自身を分析していた。プロレスに真摯(しんし)に向き合っている、山岡聖怜のリアルな声をお届けする。(取材・文=橋場了吾)
山岡聖怜は、地元・福岡でウェイクボードとレスリングで素晴らしい戦績を残してきた。小学生でウェイクボードの日本ジュニア(中学生以下)2位となり、レスリング(女子49キロ級)でもあと一歩でオリンピックに出場するレベルまで勝ち残っていた。
「ウェイクボードは……生まれてすぐにやっていたという感じです(笑)。いつ始めたのか覚えていないくらいですね。その後、私が小学4年生のときに、兄・姉(グラビアアイドルの山岡雅弥)・私の3人で同時にレスリングを始めました。小学生だった兄が100キロの人と相撲をしたことがあって、勝っちゃったんですよ。そのときに周囲から『レスリングやればいいんじゃない?』と言われたのが、皆でレスリングを始めたきっかけです。ただ私は当時レスリングに全く興味がなくて(笑)、仕方なく見学に行ったんですが、見てみたら面白くて……すぐに『やってみたい』という気持ちになって、家族会議をして皆でレスリングをすることになりました」
ビーチレスリングでも輝かしい成績を残した山岡は、通常のレスリングでは最後の最後で勝ちきれなかった。そして、大きなケガが山岡を襲う。
「最後の試合は逆転負けでした、2点差で……。コロナ禍で1日に何試合をしないといけなかったんですが、その体力がなかったんです。体力をつけるために飲まないといけない酵素が苦手で、内緒で飲まなかったんですよ。それもあって動けなくなっちゃって。そのあとに肩をケガして、復帰しようとしたときには膝をケガしちゃって。その膝のケガで、1年間休まないといけなかったんです。レスリングは1日練習を休むと3日休むのと同じと言われているスポーツで、1年間休むということは3年間を棒に振るようなものなんですよね。
それで、ケガが治ったあとにレスリングを続けるという選択肢はなかったんですよ。でもその休んでいる1年の間に、プロレスと出合ったんです。たまたまスターダムを見に行く機会があって、そのときにジュリアさんを見てそのすごい空気に完全に飲まれました。それからバイトしてチケット買って……楽しくて仕方なかったです。そのときに、自分もプロレスのリングに上がりたいな、いや将来上がっているような気がすると思って。でもその気持ちはずっと隠していて、ケガが治ったタイミングで『プロレスに興味ある?』というお話が来たんです。
それで、スターダムとマリーゴールドの練習を見学させていただくことになったんですが、最初に行ったマリーゴールドを見て、ジュリアさんほか皆さんによくしていただいて……空気感も好きだったので、入門を即断しました。見学のときに印象に残っているのはMIRAIさんですね、きびきびしていて見ているだけで楽しくなりましたし、自分も頑張ろうと思えました」
2024年8月、ケガが完治していた山岡はマリーゴールドの練習生になった。オリンピック出場レベルの実力を持つ山岡にとって、プロレスの練習で一番きつかったのは後ろ受け身だった。
「レスリングには後ろ受け身はないんですが、一発でできたんです。でも、一度背中が詰まってしまったことがあって、一時期怖くなりました。汗拭くふりをして、泣いていたこともあります。自分ができないことの悔し涙ですよ」

悔しさが練習につながり課題をクリアしていく……私は根っからのアスリート
山岡はデビュー前から「スーパールーキー」と呼ばれるようになった。初めてマリーゴールドの練習を見たときに印象に残っていたMIRAIを相手に1.3大田区でデビュー戦を行い、時間切れ引き分けの末、延長戦で敗れた。しかし、すさまじいブリッジから繰り出されたジャーマンスープレックスなど「スーパールーキーの名に偽りなし」の印象を残した試合となった。
「『スーパールーキー』という言葉をいただいた限りは、自分はその言葉を下回ってはいけないんです。めちゃくちゃうれしいですし、ありがたいことなんですけど、私はその上に行かないといけないと思って、デビュー前も家ではずっと泣いていました。デビューして『こんなもんか』とは絶対思われたくなかったですし。今も自分はまだまだだと思っていますが、同期よりも先輩と対戦する機会が多いだけでも成長はできているかなと。毎試合、自分に課題を課していてひとつひとつ達成できるようにしているんです。その課題をクリアできなかった試合もあるんですけど。(ビクトリア)弓月さんと比較するとこうなっちゃう(落ち込んだような表情を見せる)んで、追いつくためには練習しかないですね。あともう一人、この選手には練習でも負けたくないという選手がいるんですが……」
その選手は筆者も察しがついたので、後半で話すことにした。今一度、デビュー戦に話を戻そう。偶然にも、山岡はあるレジェンドレスラーと同じ言葉を口にした。
「実はデビュー戦の動画は見ていないんですよ、私。あの試合は悔しくて……思ったより動けなかったんです。リングに上がった瞬間、すでに体力がもう削られていて。でも、その悔しさが練習につながって、試合で課題をクリアしていくことが楽しいんですよ。小さいころからスポーツをしていて、根っからのアスリートなので。(4.14に対戦した中西百重が発言した)今はプロレスに命を懸けている、っていう気持ちはありますよ。人間っていつ死ぬか分からないじゃないですか、いきなり天変地異が起こるかもしれないですし。そのときに悔いが残らないように、どの試合も全力でバチバチで戦いたいんですよね」
(24日掲載の後編へ続く)
