17歳で大手事務所からデビュー→病気悪化…わずか3年で引退した元アイドル・国実百合、54歳になった今「やりがいを感じています」

元アイドルの国実百合さんが4月27日、東京・GINZA 7th Studioで34年ぶりとなる単独ライブを開催する。1988年、当時の事務所先輩である河合奈保子、石川秀美、芳本美代子、西村知美に続くホープとしてシングル『青い制服』で華々しくデビュー。音楽活動やバラエティーなどで活躍したが、もともと病弱な上に、多忙が重なり腎盂炎を発症してしまう。病気悪化に伴い活動を休止し、そのまま91年に芸能界を引退した。その後、子育てが一段落した2023年に「もう一度歌いたい」と一念発起。YouTubeで歌を披露し、昨年、アイドルイベントで引退以来初となるステージを踏んだ。ENCOUNTでは54歳になった国実さんの足跡を辿りながらソロライブに懸ける思いを聞いた。

インタビューに応じた国実百合さん【写真:舛元清香】
インタビューに応じた国実百合さん【写真:舛元清香】

ソロライブのチケット完売でライブ配信も決定

 元アイドルの国実百合さんが4月27日、東京・GINZA 7th Studioで34年ぶりとなる単独ライブを開催する。1988年、当時の事務所先輩である河合奈保子、石川秀美、芳本美代子、西村知美に続くホープとしてシングル『青い制服』で華々しくデビュー。音楽活動やバラエティーなどで活躍したが、もともと病弱な上に、多忙が重なり腎盂炎を発症してしまう。病気悪化に伴い活動を休止し、そのまま91年に芸能界を引退した。その後、子育てが一段落した2023年に「もう一度歌いたい」と一念発起。YouTubeで歌を披露し、昨年、アイドルイベントで引退以来初となるステージを踏んだ。ENCOUNTでは54歳になった国実さんの足跡を辿りながらソロライブに懸ける思いを聞いた。(取材・文=福嶋剛)

“アラフィフ”になっても透明感が漂い、当時の面影を残す国実さん。アイドルを目指すきっかけは、小学生の頃から大ファンだった松田聖子の存在が大きかった。自然豊かな高知の実家で聖子ちゃんカットをまねたり、密かにアイドルを夢見ていた。転機が訪れたのは高校2年の時。厳しかった両親に内緒でタレントオーディションに応募すると書類審査が通り、広島で開催される2次審査の通知が届いた。

「『ザ・オーディション・ボーイズ・アンド・ガールズ』(芸能事務所・芸映主催)という西城秀樹さんの弟妹募集というオーディションでした。アイドルになるか進学してアナウンサーを目指すか、ちょうどその瀬戸際で、私はこのチャンスを逃すまいと、『次のテストでいい点数を取ったら広島に連れて行ってください』と両親を説得して、何とか良い点数を取り、広島に連れて行ってもらいました」

 87年、国実さんは見事グランプリを獲得。翌朝の全国紙に大きく取り上げられ、それを見た両親も芸能界入りを認めてくれた。翌88年のデビュー会見には同じレコード会社(日本コロムビア)で事務所の先輩だった河合奈保子と石川秀美も駆けつけ、『頑張れば大丈夫!』と温かい言葉をかけてもらったという。同年3月16日に同社の8センチCD第1号として1stシングル『青い制服』でデビュー。音響メーカー・DENONのカセットテープのキャラクターにも起用され、テレビCMや雑誌の広告で全国に彼女の顔が知れわたった。

「『ここで聴く音、ここに残る音』――。今でも台詞を覚えています(笑)。初めてのCM撮影でとても楽しかったです。デビューキャンペーンは、全国のデパートの屋上でたくさん歌いました。最初は自分の歌を聴くと、音程が外れていて恥ずかしくて……。振り付けも苦手で、自分が情けなくていつも心の中で『みなさん本当にごめんなさい』って謝っていました」

 悔しさをバネに歌のレッスンを重ね、少しずつ歌手として自信を持てるようになっていく。

「私の中では5枚目のシングル『あなたしかいらない』(89年、東映不思議コメディーシリーズのフジテレビ系特撮ドラマ『魔法少女ちゅうかなぱいぱい』挿入歌)が歌手としての大きなターニングポイントでした。デビューから続いた正統派路線から大きく変わり、自分の気持ちを強めに押し出して歌った曲です。私は子どもの頃から自分の気持ちを表に出すのが苦手なタイプだったので初めは戸惑いましたが、心の中に閉じ込めていた情熱みたいなものを思い切り発散して歌いました」

 同時に雑誌や写真集などグラビアでも活躍した。

「水着のお仕事は最初とても抵抗がありました。でも『芸能界ってこういうこともしなくちゃいけない』と自分に言い聞かせて開き直ったんですが、それでも最後に出した写真集は水着を通り越したかなり大胆な撮影でした(笑)」

 デビューから3年目を迎えた91年、活動に変化が出る。名前の画数が良くないと言われ、芸名を戸籍上の國實を用いて國實唯理に改名し、都内で初めての単独ライブを開催した。しかし結果的にはこれが最後のソロライブに。もともと病弱だった体で無理をしてきたこともあり、体調を崩して活動を休止し、同年にそのまま引退した。

「心残りはありました。でも、まず病気を治さないと始まらないと思い、実家に帰ってゆっくり休みました。体調が戻ると仕事を探そうと思い、再び東京に出てきてエステティシャンのお仕事を始めました。ところが、しばらくして今度は腰を痛めてしまい、事務職のお仕事や受付をやったりしながら生活していました。20代の頃でしたね」

ソールドアウトとなった4月のソロライブはライブ配信も行う【写真:舛元清香】
ソールドアウトとなった4月のソロライブはライブ配信も行う【写真:舛元清香】

これからも人前で歌いたい

 その後、国実さんは母親として一男一女の子育てに専念。2人が成人を迎えた時、もう一度、過去の自分と向き合った。「あの頃の忘れ物を取りに帰りたい」――。そう思った国実さんは、歌手として育ての親である作曲家の林哲司氏の許可をもらい、2023年にYouTubeチャンネルを開設。過去の曲を歌い直すことを始めた。

「子育てを終えて、『これからは後悔のないように残りの人生を楽しもう』と思いました。私にとってブログやYouTubeはバンジージャンプと同じくらい勇気のいることでしたが、引退して何十年も経っているのに、ファンの皆さんから温かいコメントをたくさんいただき、涙が出てきました。同時にあの頃の自分にも『よく頑張っていたね』って褒めてあげたくなりました」

“第2章”を歩み踏み出した国実さんは昨年1月に元アイドルが集うイベントに出演した。33年ぶりにステージに立ち、歌い終わっても足の震えが止まらなかったそうだが、同時に「これからも人前で歌いたい」という気持ちが湧いてきた。

「昨年末に、再び歌うきっかけを作ってくれた宮前真樹(元CoCo)ちゃんと、現役時代に私の曲を編曲していただいた山川恵津子先生と3人でトークライブを行いました。あらためて作家さんがどんな思いで私の曲を作ってくださったのかを詳しく知ることができて、今まで以上に私の曲を愛おしく感じました。イベント終演後、久しぶりにファンの皆さんと会話する機会もあり、うれしそうに私のグッズやCDを見せてくれました。今でも国実百合を大切に思っていただけていることが本当にうれして、もう一度ステージの上で感謝の気持ちをお伝えしたいと思い、これからも前向きに挑戦していきたいと思いました」

 その夢が叶い、4月27日、東京・GINZA 7th Studioで34年ぶりとなる単独ライブの開催をブログで発表した。するとチケットは、すぐにソールドアウトとなり、チケットを取れなかったファンのためにライブ配信も決定した。

「私の中で(動画もステージも)『バージョンアップしたい』という気持ちが芽生えてきました。YouTubeは今まで音声とイメージ映像を公開していましたが、私の歌っている姿を見たいというリクエストが多く、息子に歌のMIXをお願いして、撮り方や編集方法も教わり、動画をバージョンアップさせました。ステージも“進化”させたいと思い、ワンマンライブの開催を決めました。今は歌うことが楽しくて、やりがいを感じています。多くの人に国実百合の歌う姿を見ていただきたいのでコンサート終了後も10日間のアーカイブ配信があります。よかったらご覧いただけるとうれしいです」

 34年前の熱い思いを前に、再び人前で歌うことを決めた国実さん。きっと興味深いステージを見せてくれるに違いない。ENCOUNTではワンマンライブの模様も伝える。

□国実百合(くにざね・ゆり)1970年12月19日、高知市生まれ。87年、芸映が主催の「ザ・オーディション・ボーイズ・アンド・ガールズ」で優勝。88年3月16日に『青い制服』でデビュー。シングル12枚、アルバム6枚をリリースしたが、91年に腎盂炎の治療に専念するため、芸能界を引退。以降はエステティシャン、カウンセラーとして活動。23年にYouTubeチャンネル「国実 百合 / Yuri Kunizane」をスタートさせた。96年に長男、2001年に長女を出産した。

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