芸能界引退から20年…胡桃沢ひろこさん、現在は“日本のお母さん”に「経験を生かせる仕事です」

新学期が始まり、都内にある日本語学校では海外からきた留学生や外国人労働者たちが期待と不安に胸ふくらませ、新たなスタートを切った。そんな彼らの第一歩をサポートするのは、元アイドルで現在は日本語講師として教壇に立つ胡桃沢(くるみざわ)ひろこさんだ。1990年『スター誕生スペシャル』に合格し、翌91年に17歳でデビュー。90年代前半はアイドルグループ・桜っ子クラブさくら組のメンバーとして活躍し、その後は番組のレポーターやグラビアなどでも活動した。30歳で芸能界引退を決意。引退後は海外留学を経て、日本語講師に転身し、外国人たちの“お母さん”として学生を励ましている。ENCOUNTは胡桃沢さんの近況に迫りながら波瀾万丈の半生を振り返ってもらった。

インタビューに応じた胡桃沢ひろこさん【写真:ENCOUNT編集部】
インタビューに応じた胡桃沢ひろこさん【写真:ENCOUNT編集部】

胡桃沢ひろこさんが語った芸能界入りから現在までの35年

 新学期が始まり、都内にある日本語学校では海外からきた留学生や外国人労働者たちが期待と不安に胸ふくらませ、新たなスタートを切った。そんな彼らの第一歩をサポートするのは、元アイドルで現在は日本語講師として教壇に立つ胡桃沢(くるみざわ)ひろこさんだ。1990年『スター誕生スペシャル』に合格し、翌91年に17歳でデビュー。90年代前半はアイドルグループ・桜っ子クラブさくら組のメンバーとして活躍し、その後は番組のレポーターやグラビアなどでも活動した。30歳で芸能界引退を決意。引退後は海外留学を経て、日本語講師に転身し、外国人たちの“お母さん”として学生を励ましている。ENCOUNTは胡桃沢さんの近況に迫りながら波瀾万丈の半生を振り返ってもらった。(取材・文=福嶋剛)

 取材当日はJ-POPの曲で言葉を覚える授業が行われていた。胡桃沢さんはホワイトボードに歌詞を書き終え、ニコッとしながら次に学生に姿勢を正してもらうため、お尻の絵を描いた。「ここ(お尻)をキュッと締めて、(姿勢を良くして)みんなで歌ってみましょう!」と話しかけると、学生から笑い声が漏れ、教室中が穏やかな空気に包まれた。キュートな笑顔とユニークなキャラクターはアイドル当時と変わらなかった。

 胡桃沢さんは、高校2年の時、日本テレビ系『スター誕生』のスペシャル版『スター発見』に出場。最終審査でゲストだった小泉今日子の前で『木枯らしに抱かれて』を歌い、芸能界入りの切符をつかんだ。直木賞作家の胡桃沢耕史氏の姓をもらい、言語学者の金田一春彦氏に『平成福美人』というキャッチフレーズを与えられ、胡桃沢ひろこという芸名で1991年7月に1stシングル『スパーク・プラグ』でデビューした。

 直後にテレビ朝日系のアイドル番組『桜っ子クラブ』のさくら組に加入。さくら組には、中谷美紀、菅野美穂、加藤紀子、井上晴美、持田真樹らそうそうなるメンバーが名を連ねた。胡桃沢さんは、91年11月にリリースした2ndシングル『恋する夏の日』(天地真理のカバー)で日本歌謡大賞の新人賞を受賞。メディアの露出も一気に増え、レギュラー番組が始まるなど多忙な毎日が始まった。

「大好きな番組だった『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)に出演できて、楽しい思い出もたくさんありました。でも、アイドル冬の時代(1980年後半~90年代後半)だったのでアイドル活動は長続きしませんでした」

プロレス番組のアシスタント時代に撮ったボブ・サップ、武藤敬司との3S【写真:本人提供】
プロレス番組のアシスタント時代に撮ったボブ・サップ、武藤敬司との3S【写真:本人提供】

『ASAYAN』の番組企画に2度出演

 事務所を移籍後は、心機一転バラドルとしてスカイダイビングから下水道探検まで体当たりの仕事に挑戦した。その後、フリーになった時にテレビ東京系『ASAYAN』のスタッフから声が掛かり、芸名を本名の恒崎裕子に変えて番組の企画で結成した女性ボーカルグループ・L☆IS(リス)のリーダーに就任した。

「今でいうリアリティーショーで、番組的には『いろんな衝突を経て1つにまとまる』みたいなゴールを考えていたと思うんです。でも、あまりにもプレッシャーが大きすぎて顔中に湿疹ができるくらいストレスを抱えてしまい、結局、結成から2か月で解散しました」

 21歳の時、西崎ひろこに芸名を変え、TBS系『王様のブランチ』のレポーターやグラビアでチャンスをつかもうとしていた頃、再び『ASAYAN』の企画に呼ばれた。今度は「再起に懸ける芸能人オーディション」に挑戦し、参加者にはWinkの鈴木早智子もいた。

「大好きだった『王様のブランチ』のレポーターも辞めてニューヨークに行き、厳しいレッスンを受けましたが、再起はかないませんでした。帰国してから芸名を胡桃沢ひろこに戻して、大好きだったプロレス番組で武藤敬司さんのアシスタントを務めました。私がガチのプロレスファンだと分かり、収録が終わるといつも武藤さんに話を聞かせていただきました。また、以前やっていたミュージカルにも再挑戦しました」

 健闘したが、胡桃沢さんは30歳を機に芸能界を引退する。その後、日本語講師に転身した。端緒は引退後、海外でのさまざまな経験だったという。

「やり切ったという気持ちでした。辞めてすぐに貯金を使い、カナダに語学留学に行きました。すると武藤さんがカナダのプロレス関係者に話を通してくれて、カナダで若手プロレスラーのトレーナーをされていたジョー・ダイゴーさんやWWE(米国のプロレス団体)の有名なプロレスラーたちと仲良くなり、プロレスレポーターもやったりしながら、語学とプロレス漬けの楽しい毎日でした。帰国すると今度はハワイにある飲食店で1年間店長代理をやりました。そんな海外経験がきっかけで日本語学校の先生になろうと決めて資格を取りました」

日本語講師として教壇に立つ胡桃沢先生【写真:本人提供】
日本語講師として教壇に立つ胡桃沢先生【写真:本人提供】

留学経験がきっかけで日本語講師に

 取得後のコロナ禍では学校閉鎖という大変な思いもしたが、今は元気に教壇に立っている。

「中国、インド、ベトナム、フィリピン……文化も宗教も違うさまざまな国からやってきた人たちが教室にいるので教科書を使って教えるだけじゃなくて、楽しく学べる工夫をしています。例えば歌を歌ってみたり、小学生が話すようなかわいい下ネタを例文にして笑いながら日本語を覚えてもらったり、意外とアイドル、タレント時代の経験を生かせる仕事なんです」

 そう明かすと笑顔を見せた。学生のことは、日本語以外でもサポートしている。テストが続き、疲れ果てている学生を見かけると教室で歌を歌った。

「『こういう歌があるんだよ』と言って、大事MANブラザーズバンドさんの『それが大事』を歌いました。歌詞の意味を教えると、みんな喜んで歌ってくれて。彼らにとっては先生というより日本のお母さんみたいな存在なのかもしれません」

 学生には楽しさだけではなく、日本の社会の厳しさやルールも教えているという。

「ある学生さんから『日本は遅刻に厳しすぎる』という意見がありました。それを聞いて『その気持ちは分かるけど、日本で働きたいなら絶対に守らなきゃいけないルールなんだよ』と真剣に伝えています」

 一方で、時代の変化に合わせてコミュニケーションの取り方にも気をつけるなど苦労も多いようだ。

「だんだん『おもてなし』や『配慮』といった、古き良き日本の文化があまり求められなくなってきている気がします。彼らの多くが働いている深夜のコンビニやファストフードは、お客さんと極力言葉のコミュニケーションを必要としないシステムに変わってきていますよね。ほかにもコンプライアンス、ハラスメント、多様性は外国人に対しても同じです。ひと昔前みたいに本音を言い過ぎるとモラハラ(モラルハラスメント)になってしまう時代なので、教える側もすごく気を使う時代だなって感じています」

 今後も自分らしく外国人の学生やファンらに“心”を伝えていく。

□胡桃沢ひろこ 1974年1月4日生まれ。新潟県出身。88年、中学3年の時に国民的美少女コンテストでファイナリストに選出。90年、日本テレビ系『スター誕生』の特番『スター発見』に出演し芸能界入り。91年7月10日1stシングル『スパーク・プラグ』でアイドルデビュー。直後に『桜っ子クラブ』さくら組に在籍し、2ndシングル『恋する夏の日』で、日本歌謡大賞新人賞を受賞。96年、テレビ東京系『ASAYAN』の企画「コムロギャルソン」に参加し、ガールズグループ・L☆IS(リス)のリーダーに就任。その後、西崎ひろこに芸名を変え、TBS系『王様のブランチ』のレポーターなどバラエティー路線で活動。再び芸名を胡桃沢ひろこに戻し、プロレス情報番組のMCやミュージカル、Vシネマなどに出演。2005年に芸能界を引退。現在は日本語講師として活動する傍ら、今後はフリーランスとして歌やMC、プロレスに関連したイベント活動も計画中。

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