小川直也が明かす“最強同級生”の存在 はじめは強さを疑問視も…衝撃受ける「凍りました」
バルセロナ五輪柔道銀メダリストの“暴走王”小川直也が元東北楽天イーグルスの監督であるデーブ大久保氏と、お互いのYouTubeチャンネルでのコラボ対談を実施した。合計8回に渡る動画は、各々の知られていない側面を公にしていた。

「20分でトイレがゲロだらけ。パ・リーグはヤバい」
バルセロナ五輪柔道銀メダリストの“暴走王”小川直也が元東北楽天イーグルスの監督であるデーブ大久保氏と、お互いのYouTubeチャンネルでのコラボ対談を実施した。合計8回に渡る動画は、各々の知られていない側面を公にしていた。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
まず小川の「暴走王チャンネル」では、大久保氏によりプロ野球界のさまざまな舞台裏が明かされ、その都度、小川が驚きをあらわにする。
例えば大久保氏がかつて所属した(埼玉)西武ライオンズの納会では、「20分でトイレがゲロだらけですね。歩けない」と証言。「ヤバいです、パ・リーグは」とその破天荒ぶりを明かした。
他にも、大久保氏が読売巨人軍時代に1軍入りした際、当時は1軍の最低年俸が1200万円だった。そこで年俸1150万円だった大久保氏に対し、「これじゃかわいそうだ」と感じた藤田元司監督(当時)は、球団関係者に命じ、シーズン中にもかかわらず2000万円のボーナスを振り込ませたことがあったという。
実際、振込先を聞かれた大久保氏は、「来年の年俸に足してもらったらありがたいです」と伝えると、「これは決まったことなので」とすぐに振り込まれたと語った。
また、読売巨人軍の終身名誉監督でもある“Mr.プロ野球”長嶋茂雄監督の話になると、かつて阪神タイガースに在籍していた掛布雅之氏から聞いた話として、「上京したらバッティングを見てください」と願い出た掛布氏に対し、「掛ちゃん、今振ってごらん」と電話越しに答えた長嶋監督は、電話越しに聞こえる掛布の素振りの音を聞きながら、「掛ちゃん、右肩が下がってるよ」とアドバイスされたことがあったと話した。
これには思わず小川も「すごいな……」と驚いていたが、そういう逸話が存在することこそスーパースターの証明でもある。
一方、大久保氏のチャンネルでは、小川が過去に戦った選手のなかで強かった相手として、柔道時代に戦った、同級生の古賀稔彦の強さに驚いた話を披露した。
「当時、古賀が世田谷学園で一世風靡してたんですよ」
そうは言いながら、柔道を本格的にはじめてから、ひと月足らずで黒帯を取ってしまった高校1年生の小川には「小さいヤツは弱いっていうイメージがある」ため、自分よりもふた回りほど小さかった古賀の強さを疑問視していたと告白。
「当時、地元に130キロくらいの無敵の先輩がいたんですよ。強いなあと思っていて。団体戦は体重無差別なんですけど、古賀とその先輩が当たったんですよ。(古賀は)1年生だし、やられるだろうなあと思ったら、普通に投げるんですよ、背負い投げで。立ったまま。凍りました」(小川)
重量級と軽量級の王者による一騎打ちは決勝戦で実現
それでも古賀の強さを信じられない小川は、その先輩が真面目にやっていないのでは、と疑いながら本人に確認すると、「バカじゃねえか。古賀って強いんだよ」と言われ、はじめて古賀の強さは本物だと気づいたという。
とはいえ、重量級の小川と軽量級の古賀では、体格差はもちろん階級の違いもあって高校時代に直接対決は実現しなかった。
その後、小川は明治大に進学し、1987年には19歳で世界選手権に補欠選手として参加。補欠のため、自分の出番はないと考えていた小川は、現地に入ってから暴飲暴食を続け、120キロあった体重を一気に139キロまで増量させ、周囲を驚かせつつ、急きょ、最終日の無差別級の大会にエントリーされることになってしまう。
ところが、周囲のプレッシャーもあって首尾よく勝ち進んだ小川は、そのまま世界選手権で優勝。古賀よりも早く、初の10代による世界選手権を制した小川は、一気に柔道界の重要人物に躍り出ると、89年には体重無差別で行われる全日本選手権で初優勝を果たす。
かたや古賀は、89年に世界選手権(71キロ級)で優勝。翌90年の全日本選手権に軽量級の古賀が出場を表明すると、小川との一騎打ちが実現するのかに注目が集まった結果、「全日本選手権の日本武道館がいっぱいになった」(小川)という。
小川いわく、「やっぱりチャンピオン(前年覇者)と軽量級のチャンピオンで戦わせたら面白いじゃないですか。どっちが強いんだって。そしたら古賀が決勝まで上がってきちゃったんですよ。それもすごいじゃないですか。最後どうなるんだって思うじゃないですか」と話したが、待望の小川VS古賀がまさか決勝戦で行われるとは、これ以上ないサプライズだった。
しかし、前年覇者の小川からすると、「(小川は)100%ヒールですよ。ほぼ全員。古賀がちょっと動くじゃないですか。(それだけで)ザワザワって。全然惜しくないのに、ちょっと入って(小川が)手をつくじゃないですか。それがもう投げられた感じ。ドワーンって。これ、ヤベエなって」と会場の雰囲気は古賀一色だった。
「決勝は10分間あったんです。7分で決まったんですけど、ほとんど7分ギリギリまでずっと全部(会場中が)古賀の応援です。ひとつも小川はないです。(古賀が)負けたら、『あー』って(会場全体から溜め息の声がした)。(小川が)勝って当たり前って捉えていたじゃないですか。だから勝ってもスゲー虚しかったですよ。勝っても褒められない。連覇だったんですよ。でもねえ……」
ここまで話した小川は最後に「彼の偉大さを知りました」と結び、2021年に53歳という若さで亡くなった“平成の三四郎”を偲んだ。
それがどんなジャンルであれ、歴史を知らずして明るい未来を構築することは難しい。その意味においては今回、小川と大久保氏の対談が、古き良きスポーツ界の姿を伝え合ったことは、実は重要な第一歩だと考える。願わくば、これが各々のジャンルの明日の繁栄につながることを望む。
