西村修さん、74キロで入門した新日時代 ガリガリの体でサザンのライブに誘われず…忘れられない猪木との思い出

1年にわたる食道がん闘病の末、2月28日に亡くなったプロレスラーの西村修さん(享年53)は、独特のファイトスタイルで存在感を放った。新日本プロレス退団後は無我ワールド・プロレスリング、全日本プロレスと歩み、亡くなる前には電流爆破マッチにも参戦した。34年にわたるキャリアを生前の言葉で振り返り、レスラーとしての西村さんの魅力に迫る。(連載全3回の1回目)

10代のころの西村修さん(左)と三澤威さん(現トレーナー)【写真提供:三澤威さん】
10代のころの西村修さん(左)と三澤威さん(現トレーナー)【写真提供:三澤威さん】

道場に残されて…「ずっと1人でちゃんこ番」

 1年にわたる食道がん闘病の末、2月28日に亡くなったプロレスラーの西村修さん(享年53)は、独特のファイトスタイルで存在感を放った。新日本プロレス退団後は無我ワールド・プロレスリング、全日本プロレスと歩み、亡くなる前には電流爆破マッチにも参戦した。34年にわたるキャリアを生前の言葉で振り返り、レスラーとしての西村さんの魅力に迫る。(連載全3回の1回目)

 西村さんは、錦城学園高ではバレーボール部に所属。新日本プロレス学校を経て1990年に新日プロに入門した。同期には天山広吉、1年後輩には小島聡がいた。

 当時、悩んだのは体重だった。身長は186センチながら、体重はわずか74キロ。「スクワットは1000回でもできたけど、スパーリングはきつかった」。格闘技経験がなく、体重も軽かったことから、道場での練習では先輩レスラーたちにボコボコにされた。体重をかけられると動くことはできず、息をすることもできなかった。

 このことが原因で西村さんは軽い閉所恐怖症になり、苦手意識は将来にわたって付きまとうようになる。旅先ではニューヨークの潜水艦、エジプトのピラミッド。病院のMRI検査も、心理的負担の少ないオープンMRIが置いてある病院をわざわざ選ぶほどだった。

 翌91年の飯塚孝之戦でデビュー。道場に併設の合宿所に住み込み、連日ちゃんこを目いっぱい胃袋に流し込んだが、体重は80キロ台で線の細さは変わらなかった。

 そんななか、西村さんにとって忘れらない思い出になったのが、同年12月のことだ。

「若手がサザンオールスターズのコンサートに駆り出されて、私1人だけが道場に残されたことがあるんです」

 馳浩を筆頭に、小原道由、金本浩二、天山、小島ら当時若手だった寮生全員が年越しライブのパフォーマンスに出演するため、連日道場を不在にした。

 西村さんが残されたのは「1人だけガリガリだから」。裸になってパフォーマンスするには、迫力不足と言われたようなものだった。

 だが、そんな屈辱の西村さんに、思いもよらない展開が訪れる。

 翌年の1・4東京ドーム大会で馳との一騎打ちを控えていたアントニオ猪木が、夕方誰もいない道場に姿を見せた。そのパートナーを西村さんが務めることになった。

「猪木さんが10日間ぐらい毎日道場に来て、いろんなこと教わりましたよ」

 一新人に過ぎない西村さんにとって、猪木は雲の上の存在。1対1で過ごすこと自体、初めてのことだった。

 メニューはマラソン、マッサージ、スパーリングという流れだった。

 延髄斬りの練習では悲鳴を上げた。

「猪木さんが真ん中にいて、逃げろって言われて、あっち行ったりこっち行ったりしながら逃げて。そしたらバーンって飛んで、思いっきりくらいましたね。ものすごい痛かったですよ。当たっているように見えるとか、そんな部分じゃなくて、もうドカンとくらいました」

 瞬時に激痛が走り、西村さんは後頭部を押さえてもん絶。練習と言えども容しゃない燃える闘魂の“伝家の宝刀”を身をもって体感することになった。

スリムながら長身でさわやかな表情が魅力だった【写真提供:三澤威さん】
スリムながら長身でさわやかな表情が魅力だった【写真提供:三澤威さん】

「猪木さんだけはぐちゃぐちゃ踏んじゃって」

 マッサージでは、リング上でうつ伏せになった猪木の下半身を尻、足、内側などの順で踏みつけていった。

「『全部踏め』と言われて、ふくらはぎまで全部踏んじゃいました。足踏みのマッサージは若手の時、(先輩レスラーに)さんざんやりましたけど、みんなふくらはぎは痛い痛いと言うのに、猪木さんだけはぐちゃぐちゃ踏んじゃって」

 西村さんの体重が心地よかったのか、全体重をかけても決して痛がらない。

「その時80キロぐらいしかないから、ちょうどよかったんでしょうね」

 合同練習は昼に終わっていたため、同時間帯に道場に顔を出したのはほかに橋本真也くらい。その橋本も、猪木が道場にいる間は、決して中に入ろうとしなかった。猪木と西村さんだけの濃密な時間が流れた。

「私だけやせっぽちだから誘われず、ずっと1人で電話番、ちゃんこ番ですよ。私より後輩の小島が行って、この野郎って思ってたら、その時に限って毎日猪木さんが来た。毎日走って、毎日マッサージやって、毎日スパーリングやって……貴重な10日でしたね」

 のちに、西村さんはフロリダに住み、ニューヨークに自宅を構えた猪木と米国でも接点を持つようになるが、この時の経験は特別なものとして刻まれることになった。

□西村修(にしむら・おさむ)1971年9月23日、東京都文京区出身。錦城学園高から新日本プロレス学校を経て90年に新日プロ入門。91年4月にデビュー。93年のヤングライオン杯で準優勝し、海外修行に旅立つ。98年にがん(後腹膜腫瘍)を告知され、長期欠場に入る。1年半後に復帰。フロリダに居住し、日本と米国を行き来する生活を続ける。2006年、新日プロを退団し、無我ワールド・プロレスリングに合流。11年、文京区議会議員選挙に初当選。186センチ、105キロ。

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