「私、2回目のがんになっちゃいましてね」西村修さん、病院で突然の告白 闘病に密着の記者が明かす人柄

プロレスラーで東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日、亡くなった。まだ53歳の若さだった。西村さんと25年の交流があり、昨年4月からの闘病を追い続けてきた記者が追悼する。

1月31日に撮影、入院中の西村修さん【写真:本人提供】
1月31日に撮影、入院中の西村修さん【写真:本人提供】

「月曜日取材をお願いしたい」 謎めいていたLINE

 プロレスラーで東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日、亡くなった。まだ53歳の若さだった。西村さんと25年の交流があり、昨年4月からの闘病を追い続けてきた記者が追悼する。

 昨年4月5日、西村さんから1通のLINEが届いた。

「月曜日取材をお願いしたい 可能でしょうか」

 当日理由も分からずに行くと、近くの病院の1階に来るよう告げられた。午前中でフロアは混んでいた。入退院の手続きをする部屋の前で、妻を連れ添った西村さんは言った。

「私、2回目のがんになっちゃいましてね。これが記者会見。1人だけの」

 西村さんとは3月に群馬で営まれた吉江豊さんの通夜に一緒に行ったばかりだった。西村さんはワインを用意し、高崎へ向かう新幹線の中で吉江さんに献杯をあげていた。元気な印象しかなかった。

 予想だにしない告白に驚き、受け止められずにいると、西村さんはさらにステージは4で、手術はできない状態であることを明かした。

 現役レスラーであり、議員でもある西村さんは情報の公開を望んだ。「下手に隠すよりも、そこから復活すればいいことですから」。だが、病気はこの時点でかなり進行していた。それから3週間後、万座での湯治に同行した時、西村さんが見せてくれたのはPET検査の全身画像だった。食道を中心に、首周辺から左上部にかけて黒い斑点が広がっている。これがすべてがんとの説明だった。言葉を失った。

 本人は決して暗い顔を見せなかった。16歳年下の妻を思い、弱音は吐かなかった。診察室の空気が重くなった時には冗談を言い、涙を流す妻を励ました。一方で、6歳のひとり息子を溺愛。治療で離れ離れになることも多く、テレビ電話で帰宅をせがまれると、「明日帰るからね」とパパの顔になって優しく語りかけていた。

 レスラーであることにはこだわり続けた。病室にダンベルを持ち込み、スクワットで下半身を鍛えた。8月、12月と2回リングに上がり、がんと闘う生き様をプロレスファンに届けてきた。それは、がん公表当初からの西村さんの願いだった。

 プロレス専門誌の表紙でインドのガンジス川から1回目のがん罹患を告白したのは26歳のこと。若くして大病を患い、体調管理にはひと一倍気をつけてきた。2005年にフロリダ州タンパの自宅を訪れると、西村さんはうどんをふるまってくれた。キッチンでかつお節からダシを取る姿に驚いたことを思い出す。議員になってからも食育活動の普及に力を入れていた。

 1月31日、入院中の西村さんを見舞った。病棟のエレベーターホールで待っていると、病院のスタッフに付き添われ、点滴をつけながら廊下を歩いてきた。病院からの指示により、仕切りを挟んでの5分ほどの会話で西村さんが気にしていたのが、この日、後楽園ホールで西村さんの代わりに参戦した師・藤波辰爾のことだった。

「ぜひ復帰の時は、組むか闘うかどちらでも、ぜひよろしくお願いしますと言ってましたと伝えてください」。復帰の舞台で再び藤波と再会することを思い描いていた。

 2月中旬、西村さんは体調悪化に苦しんでいた。

「今回は死ぬほど苦痛でした」

 がんは食道、脳に加え、肝臓にも転移。ベッドから動くこともままならなかった。壮絶な闘病生活に意識がもうろうとしながらも、数値が向上したことに安堵(あんど)していた。帰宅を強く望み、退院が3月4日に予定されていた。「また近々」。最後まで回復を諦めず、病魔と格闘した。

 明るくユーモアにあふれ、一度、話し出すと止まらないことから「無我の説法師」と呼ばれた。若手の頃、日本からの帰国指令を拒み、長州力から雷を落とされたこともある。アントニオ猪木から欧州転戦を勧められ、そこで新境地を開拓。2000年からは再び拠点を海外に移し、フロリダに自宅を構えた。

 毎月のように日米を往復し、成田空港ではたびたび取材した。ヤンキース時代の松井秀喜と同じコンドミニアムに住み、ヤンキースタジアムでの野球観戦にいそしんだ。日本ではアメリカンサイズのリンカーンに乗り、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」を熱唱した。世界を股にかけた自由奔放な生き方は、魅力にあふれていた。

 西村さん、長い間お世話になりました。安らかにお眠りください。

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