渡辺えり、創作の源は“怒り” 新作歌舞伎に映画監督…70歳でさらなる挑戦「約束を果たす」
俳優で劇作家、演出家の渡辺えりが、2月1日から新橋演舞場で上演の二月新派喜劇公演『三婆(さんばば)』に出演している。70歳になった1月5日には、古希公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』を開催したばかり。ENCOUNTは、そのパワフルなその生きざまに迫った。
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40歳『Shall we ダンス?』で気づいた「娯楽作品も反戦」
俳優で劇作家、演出家の渡辺えりが、2月1日から新橋演舞場で上演の二月新派喜劇公演『三婆(さんばば)』に出演している。70歳になった1月5日には、古希公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』を開催したばかり。ENCOUNTは、そのパワフルなその生きざまに迫った。(取材・文=コティマム)
山形県生まれの渡辺は、幼少期から物語や歌が大好きだった。小学5年生時の学芸会で初めて脚本を書いて演出を手掛け、主演した。高校では演劇部に所属。文学座の俳優・長岡輝子主演の『ガラスの動物園』の山形公演を観賞し、プロを目指す。18歳で上京し、舞台芸術学院に入学。貧乏学生生活を送りながら、23歳で『劇団2○○(げきだんにじゅうまる)』を結成した(後の『劇団3○○(げきだんさんじゅうまる)』)。舞台作品では脚本、演出、出演の3役をこなし、フェミニズムや反戦など、メッセージ性の強い社会派作品を多く手掛けている。
――70歳まで続けてこられた“源”や“根幹”を教えてください。
「世の中が変わらないことへの怒りです。世界平和を夢見ているのに、紛争が絶えないし激化するし、頭にきちゃう。でも『頭にきた』と言っても、誰も聞いてくれない。誰だって戦争は嫌だ。それを誰かが言い続けないといけない。今、私が続けている根底は『怒り』ですね」
――怒りを演劇にこめていると。
「小さい頃は、『自分ではない別のものに変身したい』という気持ちがあって、絵も歌もデザインも全部入っているのが演劇でした。今、年をとって続けている源は『怒り』。やらなくてもいいのにやっているから(笑)。自分で作る芝居も演劇もずっとやっているのは、そういう『怒り』からです」
――社会問題を訴えるテーマではない作品だったとしても、根底には『怒り』があるのでしょうか。
「それは、『稼ぐため』ですね。この頃、思うんです。反戦などをテーマにした作品は、少数の人しか見に来ない。儲からないんですね。でも儲からなくてもやらなくてはならないと思っています。でも稼がないと自分も生きていけないから、そこは割り切って『社会性がテーマではない作品』もやる。でも、それをやること自体も反戦なんですよ。演劇も映画も人が見るもの。人を喜ばせるもの。芸術や娯楽は、人を殺す戦争があると成り立たない。だから、『分かりやすいみんなが大笑いできる芝居をやる』ことも、反戦なんです」
――娯楽や芸術を提供すること自体が反戦になっていると。
「そのことに、40歳を過ぎた頃に気づきましたね。映画『Shall we ダンス?』(1996年、周防正行監督)をやった時に。一般の中年の人達がダンスを通して、小さな夢を実現していくステキな作品なのですが、平和の祈りをテーマに掲げている作品であっても、その作品を一生懸命やることがおのずと反戦へと繋がっていることに気が付きました。当時も『メッセージの強いものだけをやるんだ!』と思っていたけど、それだと、それを好きな人しか見に来ない。でも一般の人が好きなものはみんなが見に来る。お客さんが戦争で爆撃されたら成り立たない。だから(芸術は)平和のためにやっていることになります」
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山形ロケ映画や歌舞伎俳優たちとの約束「頭がしっかりしている内に」
――幼少期から、脚本や演出にも興味があったのですか。
「小学1年生の頃から『作る側もやりたい』と思っていました。当時からお誕生日会などで、私が作ったストーリーをみんなに演じてもらっていました。当時の友達が、『昔と全く変わってない。当時から泣きながら演出していた』と言うんです(笑)。小さい時から『作りながら演じること』をしてきたので、『そういうもんだ』と思っていました」
――台本や脚本を書くためには、リサーチや取材も必要なのでは。
「そこは、何としてでも時間を作ります。東京の伊豆諸島の新島村や岡山県まで取材に行ったり、本をごっそり借りてきたり。昔は、必要な本や資料が売っていない時は国会図書館まで行ってコピーしていました。当時は本当に大変だったけど、今はネットで何でも買えるから便利ですね。スマホで検索してクリックすると次の日に届く。10分の1の時間です。届いた本や資料は徹夜して読むんです。書きたいところに印をつけて、そこだけ覚えていったり、時代背景を調べて書いたり。取材して、間違いがないか資料で調べて、事実確認をしながら書いていく感じです」
――ハードな作業ですね。
「そういう“クセ”になっちゃってる。20代後半で俳優として食べられるようなったので、『書きながら“食べる仕事”もやる』というスタイルで今日まで至ります」
――古希を迎え、これからやりたいことを教えてください。
「若い頃は、ものすごい仕事量を泣きながらやりました。時間がなくてパンパンで。でも、年をとったから、『小さい時から好きだったこと』をやろうと。22年に清水邦夫の戯曲『ぼくらが非情の大河をくだる時』の演出に挑戦し、23年に(高校生の頃見た)『ガラスの動物園』を故郷の山形で上演しました。どちらも16歳の時にやりたかった夢。それから『体が動く間に古希特別連続公演をやる』という夢もかなえました。43人出演するのを2本立てでやるので80人超えです。『自分が書いて演出して演じるのは、70代前半しかできない』と思い、『自分がやりたい』と思うことを、お金にはまったくならないですけど詰め込んでいきます」
――既に多くを実現されています。
「(三婆で共演の)波乃久理子さんが、『もうダメだ』と言いながら79歳で舞台に立たれている。水谷八重子さんは85歳。上には上がいます。以前、(波乃の弟の)十八代目中村勘三郎さんの息子たち2人(中村勘九郎、七之助)に『歌舞伎を書いてほしい』と頼まれたので、新作歌舞伎も作らなくちゃいけない。市村正親さんとも『何か一緒にやろう』とずっと言っています。昔から約束していた人たちとの約束を果たす70代。『自分がやりたくてもやれなかったこと』をやるのが70代前半ですね」
――やりたいことがたくさんありますね。
「『映画を撮る』というのも10年間構想したテーマがあります。『自分が演劇をしたかった頃の話』を山形でロケをして、山形の四季を全部出して、“オール山形ロケ”をやる。監督も演出も自分の頭がしっかりしている内にやらなきゃいけない。(映画監督の)新藤兼人さんは90代で撮っていたし、今年84歳の宮崎駿監督とは誕生日が1月5日で同じ。いつも『先を越された』って思うんです。年齢と闘いながらも、やりたいことはたくさんあります」
□渡辺えり 1955年1月5日、山形県生まれ。舞台芸術学院卒業後、1978年に現在の『劇団3○○(さんじゅうまる)』にあたる『劇団2○○(にじゅうまる)』を設立。83年、『ゲゲゲのげ』で作・演出・出演の3役を担い、劇作家の登竜門・岸田國士戯曲賞を受賞。87年『瞼の母―まだ見ぬ海からの手紙』で紀伊國屋演劇賞個人賞。2004年『今昔桃太郎』、2009年『新版 舌切雀』では、歌舞伎の作・演出も手がけた。19年から日本劇作家協会会長。今年は70歳を迎え、東京・本多劇場で古希公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』を開催。
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